クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

編集者と行く羽生城めぐりは?(11) ―鐘打山―

2010年11月12日 | 羽生城跡・城下町巡り
“鐘打山”と呼ばれる場所はある。
「山」とはいえ、現在は平地になっていて、
「鐘」の姿もない。

『羽生市史』では『謙信と信玄』(井上鋭夫)を参考とし、
「越後春日山と羽生城との連絡に鐘を打ちならした所と思われる」と述べている。
すなわち、一理ずつに鐘を設け、
それを打ち鳴らして遠く上杉謙信のいる越後に伝えたのだ、と。

羽生城が謙信に緊急を知らせる事態に陥っていたのは確かである。
元亀3年には忍城主“成田氏長”が侵攻。
羽生勢を打ち散らしたと、氏長は北条氏照に報告している(「吉羽文書」)。

天正元年には“北条氏繁”が羽生城に的を絞る。
まだ地理に疎かった氏繁は、
鷲宮神社神主に「案内者」を寄こすよう伝えた(「結城寺文書」)。

そんな動向に対し、謙信は「黄金弐百両」を羽生に送る。
羽生城主“木戸忠朝”は、天正2年正月に城の維持を正覚院に祈願。
羽生城が危機的状況だったことが窺える。

そして謙信は、同年春に関東へ出陣した。
上州の城を落としたあと、羽生城救援に向かう。
ところが、謙信の前に立ちはだかったのは利根川だった。

雪解け水で川は増水し、渡ることができない。
結局謙信は救援が叶わず、越後に帰ってしまう。
そして羽生城は、同年冬に謙信の命令によって自落するのである。

天正2年7月26日付の木戸忠朝らが謙信に宛てた手紙の中に、
「越山為催促 態使僧具見聞候」とあるように、
羽生城は切に謙信からの救援を求めていた。
もし一里ごとに鐘を設けていたのなら、
鐘を打ち鳴らして助けを呼んだだろう。

しかし、北武蔵と越後とではあまりにも遠すぎる。
戦国時代に本当にそこに鐘打場があったのなら、
領民に緊急を知らせたり、
戦闘員としての動員を求めて打ち鳴らしたのではないだろうか。
領民のほとんどは、普段農作業をして暮らしていた。
しかし、鐘の音が鳴り響くと、
武器を手に持って動員したのだろう。

現在、「鐘打山」と呼ばれる場所は変電所になっている。
無闇に近付くこともできない。
その呼び名がなければ、
鐘の「か」の字も想像できないだろう。

「山」も「鐘」は現存していないが、
呼び名が往古の歴史を繙くヒントとなることがある。
いま鐘打山の前に立ち、
耳を澄ませば鐘の音が聞こえてくるかもしれない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 新聞に報じられた“羽生城”は? | トップ | “ラーメン”と“城”の組み合わ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

羽生城跡・城下町巡り」カテゴリの最新記事