岡部町の小さな公園に、
“五輪塔”が物々しく並んでいる。
ここは埼玉県指定史跡の“岡部六弥太の墓”である。
岡部氏は武蔵七党の猪俣党の一族であり、
六弥太は“岡部忠澄”(おかべただずみ)と名乗った。
墓および、近くに所在する普済寺一帯が岡部氏の館跡と考えられている。
終始源氏に仕え、一ノ谷の合戦では“平忠度”を討ち取った功績により、
伊勢国に地頭職を拝領した。
奥州藤原氏征伐にも参加しているし、
源頼朝にも認められる武蔵武士だった。
血気盛んな武蔵武士というわけではなく、
慎み深い性格だったらしい。
一ノ谷合戦で討ち取った平忠度のために、
五輪塔と桜をたててその菩提を弔ったと伝えられる。
祟りを恐れたためとも考えられるが、
民に慕われる領主だったようだ。
というのも、岡部六弥太の墓を削って飲むと、
子のない人には子ができ、
乳のでない人には乳が出ると信じられていたという。
そのため、六弥太の五輪塔は歪に変形している。
その武が崇拝されたのか、
それとも徳のある領主だったのか、
亡きあとも六弥太を慕う民は後を絶たなかった。
『新編武蔵風土記稿』には普済寺と六弥太の墓の絵図が収録され、
「五輪塔十三四基並立り、何れも欠損して全からず」と記している。
ちなみに、発掘調査によって五輪塔の下から蔵骨器が出土した。
蔵骨器とは、いわゆる骨壺である。
この蔵骨器は地元産および、
常滑産のものが交ざっていた。
流通や交通を見る上で示唆を投げかけている。
現在の岡部六弥太の墓は囲いに守られ、
墓碑を削ることはできない。
しかし、削られた墓碑は生々しい感じで見ることはできる。
往古よりここがパワースポットだったことが読み取れるだろう。
※最初の画像は県指定「岡部六弥太の墓」
手前が父行忠、次が六弥太で、3基目が六弥太の妻の五輪塔だという。
“五輪塔”が物々しく並んでいる。
ここは埼玉県指定史跡の“岡部六弥太の墓”である。
岡部氏は武蔵七党の猪俣党の一族であり、
六弥太は“岡部忠澄”(おかべただずみ)と名乗った。
墓および、近くに所在する普済寺一帯が岡部氏の館跡と考えられている。
終始源氏に仕え、一ノ谷の合戦では“平忠度”を討ち取った功績により、
伊勢国に地頭職を拝領した。
奥州藤原氏征伐にも参加しているし、
源頼朝にも認められる武蔵武士だった。
血気盛んな武蔵武士というわけではなく、
慎み深い性格だったらしい。
一ノ谷合戦で討ち取った平忠度のために、
五輪塔と桜をたててその菩提を弔ったと伝えられる。
祟りを恐れたためとも考えられるが、
民に慕われる領主だったようだ。
というのも、岡部六弥太の墓を削って飲むと、
子のない人には子ができ、
乳のでない人には乳が出ると信じられていたという。
そのため、六弥太の五輪塔は歪に変形している。
その武が崇拝されたのか、
それとも徳のある領主だったのか、
亡きあとも六弥太を慕う民は後を絶たなかった。
『新編武蔵風土記稿』には普済寺と六弥太の墓の絵図が収録され、
「五輪塔十三四基並立り、何れも欠損して全からず」と記している。
ちなみに、発掘調査によって五輪塔の下から蔵骨器が出土した。
蔵骨器とは、いわゆる骨壺である。
この蔵骨器は地元産および、
常滑産のものが交ざっていた。
流通や交通を見る上で示唆を投げかけている。
現在の岡部六弥太の墓は囲いに守られ、
墓碑を削ることはできない。
しかし、削られた墓碑は生々しい感じで見ることはできる。
往古よりここがパワースポットだったことが読み取れるだろう。
※最初の画像は県指定「岡部六弥太の墓」
手前が父行忠、次が六弥太で、3基目が六弥太の妻の五輪塔だという。