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美術館さすらひ 09 - ちひろ美術館開館40周年記念 〈奇喜怪快 井上洋介の絵本展〉/ちひろの詩(うた)―絵は詩のように― - 「ちひろ美術館・東京」

2017-09-14 15:55:55 | In an Art Museum
企画展 奇喜怪快 井上洋介の絵本展

井上洋介と聞いて、咄嗟に誰かを思い浮かべられなくても、その作品を見れば、多くの人が「うんうん」と頷くことだろう。いや、もしかすると、あまりの懐かしさにあの頃の思い出が突然脳裏をよぎる人もいるはずだし、人によっては、涙腺が緩むかもしれない。
 
「くまの子ウーフ」の原画を前にして、ボクは幼い頃の、なんだか懐かしい思いにとらわれた。まさか、この日ウーフに再会できるだなんて、思ってもみなかった。そうか、ウーフの絵は井上洋介の絵だったか。
絵本や児童文学の挿絵は偉大である。話の筋はうろ覚えでも、絵を見れば、あの頃の記憶がまざまざと蘇ってくる。何故なのだろう。幼いころの絵は記憶と紐付いて、しっかりと脳のどこかに刻印されている。
 
隣京極夏彦の文章による絵本「うぶめ」。
見開きによる奇々怪々な絵が、井上洋介による「うぶめ」である。
京極夏彦のデビュー作「姑獲鳥の夏」を読んだとき、わたしは当の姑獲鳥を頭の中にイメージすることができなかった。奇々怪々な見るもおぞましい文章表現に、わたしは追いつけなかったのである。この世のものではなく、想像の産物である姑獲鳥をどのように描くか。この作業は恐らく、難航を極めたことは想像に難くない。だが、井上先生だからこそなし得たのではないかと原画の前でわたしは立ち尽くしてしまった。奇々怪々な京極の文章に、奇喜怪快な井上の絵。こんな傑作はそうそうあるものではない。その原画を直接見ることの出来る幸せ。
 
「まがれば まがりみち」。
俯瞰のアングルから描かれた町並みと人。どこか不穏で、世界が歪んで見えるのは、曲がり角に差し掛かる人の不安の投影なのだろうか。よくもこんな前衛的な作品を絵本という形で表現できたと、ただただ圧巻なのだ。
 
そして、戦時中の体験を基に書き溜めたタブローの数々が所狭しと飾られる展示室は四方が全て、どろどろとした得体の知れない感情を塗り重ねた数珠の作品が囲む。その圧倒的な存在感、悪寒すら感じさせる色彩、そこにあるのは、職業としての画家の裏側にある、もうひとつの井上に他ならない。
 
井上洋介漫画集「サドの卵」他。
外国のコミックを彷彿とするコマ割りと、洗練されたペン運び、そして抽象的なストーリー。まるで、漫画とは何かと問うてくるようだ。誰も答えを出せないのに、ひどく詰問させているようで、漫画は混沌だと、答えるのがやっとだった。

 
膨大な仕事をしてきた井上の作品に、どれひとつ同じタッチの作品がないことに気づく。どれが本当の井上なのか。いや、どれも本当の井上だろう。心のあちこちにあるコラージュされた井上の心をこの企画展で垣間見ることができる。
 
開館40周年Ⅲ ちひろの詩(うた)―絵は詩のように―

 
子どもをもってから、いわさきちひろの絵に対する視点が変わった。当然といえば、当然である。わたしをみてほしいと願った子どもから、あなたを見ているという大人に。
長男の猛のデッサン画。その横に添えられた文章に思わず鼻の奥がツンとなる。「住居やしごとの関係で、生まれて1ヶ月半の子を故郷の母に託さなければならなくなった。切ない気持ちの連続だった、このおかあさんは・・・」。その後はもう目が曇って読めなくなった。
 
「絵は詩のように」。
それは描き手だけに由来するタイトルではない。ちひろの絵を見る人も主人公であり、その人の詩が冠せられる。
 
時々でもいい。ちひろの絵を見れば、心は洗われる。
 
※ブロガー観賞特別週間に当選したため、撮影は許可されています。

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