「もうただではすまないかもよ」。
髭の男が言った言葉に、わたしは動揺した。恐らく、わたしはかなり不安な顔つきになったのだろう。
髭の男はすぐさま、「ジョークだよ」とわたしの背中をたたきながら言った。
それでも、わたしはまだ彼らを信用できなかった。
バスの轟音の中、我々の会話はほとんどかき消されてしまったが、我々はまだお互いの名前すら聞いていなかったことに気づき、自己紹介をした。髭の男はボブネッシュと名乗った。あとの2人の男らも名前を名乗ったが、発音が難しく、覚えることはできなかった。
バスにどのくらい揺られただろうか。15分か、或いは20分か。ひどく長い時間のように感じる。
大勢乗っていた客も少しずつ少なくなり、バスの車窓はデリーの中心地から、郊外の風景へと移り変わっていた。
「君の家はまだ遠いのかい」。
わたしは、また不安に駆られてボブネッシュに尋ねた。
すると、ボブネッシュは「そろそろ降りるよ」と言い、わたしを席から立たせた。そして、わたしにこう耳打ちをした。
「ボクらが、バスから飛び降りたら、君も後に続け」。
「え?金は?」とわたしが聞き返すと、ボブネッシュは「ノープロブレム」と言い残し、バス後部の出入り口を目指して走ったかと思うと、次の瞬間、彼の姿はバス車内から消えていた。バスがカーブに差し掛かるのを見計らい、彼は跳んだのである。
そのチャンスを逃すまいと、残りの2人もバスの後部に走りだし、わたしもその後に続いた。
彼らが飛ぶのを見て、わたしもひらりと飛んでいた。バスのスピードの反動で、わたしは少しよろめいたが、なんとか舗装されていない道に着地することができた。
バスは砂煙と黒煙を巻き上げながら、走り去っていた。
「インドのバスは無料なのかい?」。
ボブネッシュの友人に尋ねると、「そんなことはない」という。
「え?無賃乗車かい?」と再び尋ねると、彼は「まぁ、そんなところだ」と平然と言って、そそくさと歩き出した。
バスを降りた場所はデリーの郊外といった風情だった。
道は舗装されておらず、赤土がむき出しになっていた。小さな商店が並び、子どもたちが店の前で遊んでいる。
建物はほとんどが平屋で、空が広かった。ずいぶん遠いところまできてしまったように感じた。
ボブネッシュの後を尾いていくと、やがて小さな家の前で彼らは立ち止った。
「ここがボクの家だ」。
そうやって、わたしに向かっていうと、彼はヒンドゥ語で家の中に声をかけた。
やがて、サリーをまとった小柄なおばさんが現れた。
「ボクのママだ」と彼はわたしに紹介すると、ボブネッシュのママは優しそうな笑みを浮かべながら、手を胸の前に合わせて「ナマステ」とあいさつした。
わたしも、それに倣い「ナマステ」と返した。
驚いたことに、ボブネッシュのママはわたしに驚くことなく、さりとて怯むことなく、わたしを家の中に招き入れた。彼の家は平屋で3DKの質素な家だった。床は土間だったことに驚いたが、部屋は清潔だった。土間の家はひんやりとしていた。気候が暑いインドの知恵かなと思うと妙に納得した。
ボブネッシュは「大学生だ」と自ら名乗った。インドの進学率がどのくらいかは知らないが、恐らく日本よりも高くはないだろう。すると、インドで大学に進める家庭は上流階級なのかしれない。ましてや、カースト制度が残るインド社会にあって、大学に行ける層はやはり限定的であろう。そうすると、ボブネッシュ家はインドの平均以上の家庭なのかもしれない。だが、それにしては、家が質素だった。
そんなことをぼんやり考えていると、ボブネッシュのママがテーブルに食べ物を運んできた。
カレーとチャパティだった。
わたしは感激した。見ず知らずの異国の人間が急に訪ねてきたのに、何故親切にしてくれるのだろうと。
わたしは有り難く、カレーをいただくことにした。カレーを口にしてみて驚いた。格別においしいのである。ニューデリーの食堂の何倍もおいしく感じる。
わたしは「ヤミー」を連発した。ボブネッシュのママは英語を理解しないようだったが、彼女は目を細めて相好を崩した。ボブネッシュもその友人らも、わたしの食べっぷりに驚きながら、静かに見守っていた。
わたしは急に恥ずかしくなってきた。
何故ならば、わたしはつい数十分ほど前まで、ボブネッシュを疑っていたのだから。
カレーをすっかり平らげると、ひとごこちついた。いつしか、わたしは、彼らとすっかり意気投合し、おしゃべりにふけった。そのうち、ボブネッシュの妹さんが帰宅すると、談笑の輪は更に広がった。
やがて、場はわたしのインド滞在について話題がうつった。
「デリーの後はどこへ行くの?」。
吸い込まれそうな瞳をわたしに向けて、妹さんがきいてきた。
わたしは、まっすぐ見つめる彼女の瞳にドキドキしながら、「ノーアイディア」としか言うことができなかった。
すると、妹さんは席を立ったかと思うと、一枚の地図を持って戻ってきた。
それは、インドの地図だった。
インドは広大だった。この広いインドをわたしはどのように歩いて行こうか。
つい、わたしが、「広いな」と日本語で一人言を言うと、一堂は「何?」と聞き返してきた。
わたしが、「インドは広い」と英語にすると、彼らは顔を見合せ、確かめあうようにうなづいた。
その地図を、妹さんの強い勧めで、わたしは、頂くことにした。インドの地図を持っていない自分にとってありがたいプレゼントだった。
※これまでの「オレ深」は、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴ってきました。インド編からは同時進行ではありませんが、これまでの経過とともに、鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
困っている外国人を見ても、そのままスルーするよ。
あ~、ダメだなって思う。
ボブネッシュとは実は今もFacebookを使って、交流しているよ。
今度二人で通りすがりの外人に「ホッピーでも呑みに行こうぜ!」と誘うか・・・・。
通りすがりの外国人に「ホッピー」を説明するのが難しいよ。
普通に「Sake」でいいんじゃないかな。
それでも、あえてホッピーを?
良い奴の家に呼んでもらっていい経験したねえ。
俺がカジュラホで行った自称学生君の家も、家の作りや歓待ぶりはだいたいこんな感じだったなあ。なお、あんな感じの簡素な家の作りでも、当時のインドでは、そこそこ裕福な家なんじゃないかと俺は思ってたよ。
それにしても、あの当時会った奴と、今フェイスブックで繋がるとは・・・。ネット世界、やはりある意味恐ろしいね。でも、ネットが無ければ繋がらなかったことを考えると、凄いツールでもあるねえ。
ちなみに、俺もあの旅以来、困っている外国人旅行者の方を助けられればと思ってるけど、俺が観光地をウロウロしないのと、意外に観光都市京都だとさして外国の方々でも大きく困ることはないらしく、あまりそういう人に会わないよ。
なお、道案内とかしてちょっと仲良くなったとしても、やっぱり家に呼ぼうとは思わないだろうねえ。
そういった意味では、日本以外のアジア諸国の人達は、やはりメッチャフレンドリーだなと思うよ。
それは決して南国的なフレンドリーさだけでなく、仏教やヒンドゥー教など教えにある他人への施しについての対象が、他国と接することのない島国日本と違い、同国人だけでなく他国の人であっても同じであることに起因するのではなどと思ったりするよ。
道を聞くとでたらめを教えてくれるっていうけれど、あれもなんとか力になってあげたいという気持ちの表れなんだとか。
それもよく分かるような気がする。
>仏教やヒンドゥー教など教えにある他人への施しについての対象が、他国と接することのない島国日本と違い、同国人だけでなく他国の人であっても同じであることに起因するのではなどと思ったりするよ。
なるほど。
宗教は確実に影響があるね。
施しについては、このインド編の大きなテーマのひとつだよ。