
キム・ウナは釜山出身の28歳の子だった。
当時のわたしより2歳ほど年上だった。
どこをどういう風にして長期旅行に出てきたのか分からないが、とにかく、西の果てまで行ってやろう、という気構えに彼女は満ち溢れていた。
ウナは決して美人ではなかったが、とてもチャーミングな子だったと思う。
大理は高地で朝晩ともに冷えるのだが、その度にわたしは「寒い寒い」を連発していると、そのうち彼女もその言葉を覚えて「サムイ」と言うようになった。
彼女には、朴さんという男性の連れがいた。
この2人が、どのような関係なのか、わたしには関係のない事だったし、聞いた所でどうにもなることでなかったので何も詮索などしなかった。
ただ朴さんは、慶応大学の留学生であったために、日本語がペラペラで、3人で会話するときは、朴さんを通じて日本語で話すときが多かった。
ウナに連れてきてもらった安宿の「四招」は、すこぶる快適だった。
ドミトリーで1泊10元。小さな体育館のような建物に、床は地べた。ほとんどの客は西洋人で、東洋人は我々しかいなかったが、部屋の中は暖かく快適な宿だった。
大理の朝は遅かった。朝の8時になっても、まだ外は暗かった。中国はあの広大な面積を持っていながら、時差を設けていない。だから、こんな西南の果て(緯度でいえばホーチミンとほぼ同じ)まで、来ても日本と時差は僅かに1時間しかないのだ。1月下旬の朝は8時を過ぎても太陽は昇らなかった。
こうして、大理での3日間は瞬く間に過ぎていった。
この間、わたしは、二招に泊まっているM浦さんを訪ねたりするだけで、ほとんど何もしていなかった。
夜になれば、近所の安料理屋で、簡単な中華料理をウナと朴さんを囲んで食べる程度だった。
大理に着いて3日目の夜。そろそろ、わたしは雲南省の美しき都、麗江へ向けて出発しようかと考えていた頃で、翌日出発する、と彼らに告げたのだった。
すると、ウナもすぐさま「一緒に行く」と言い出した。
大理から麗江まで、バスで6時間。たいした距離ではない。
だから、きっとウナが、そう言ったことには、何の他意もないはずだっただろうし、そのときのわたしも特に何も感じなかったのである。
こうして、わたしとウナ、朴さんの3人で翌日、ミニバスに乗って大理を後にしたのである。
麗江。
雲南の少数民族、納西族が約800年前に作ったとされる町。名前の通り、山紫水明の麗しき水の町である。
日本語読みで「れいこう」と読んでも、耳慣れぬ響きに異国情緒を多いに駆り立てられるが、中国語読みで「リージャン」と読んだほうが、より一層この町の静謐な美しさに触れられる気がする。
古城の町の景観が世界文化遺産に登録されたことから、最近では日本のマスメディアにも多く露出され、日本人観光客にも人気を博しているようだが、10年前の麗江は、ほとんどバックパッカーしか行かない場所だった。
何故、雲南の山奥にこんな豊かな町が作られたのだろう。麗江の町並みを眺めると、そんな疑問が沸いてくる。
古城の瓦屋根の町並み。朝日に光る石畳。水清らかな水路。色とりどりの衣装に身を包んだ少数民族。町でよくみかける老人の納西族の方々は必ず青い中山帽を被っている。
昨秋、NHKで放映された「探検浪漫 世界遺産」によると、麗江は「茶馬古道」と呼ばれるお茶の貿易の要衝の地。チベットの拉薩から、遠くはインドシナ半島までをお茶の交易によって、栄えたのだという。
とにかく、その町並みはアッと息を飲むほどに壮観な景色だった。
その壮大な眺めは旧市街だけではなかった。
我々が宿泊する麗江賓館からは標高5,500mという玉龍雪山の白い雪を頂いた美しい山が一望できた(写真)。
一度、レンタサイクルを借りて、麗江の町から8kmほど離れた白沙村という村落までサイクリングをしたことがある。
そこには、和さんという高名な漢方医がいるという。もし、運がよければ、薬を処方してもらえるというので、お袋に一服持って帰れればいいかな、という気持ちで出かけてみた。
辺りには、何もない荒野の中の一本道をただひたすら自転車のペダルをこぐ。ひとっこひとり、クルマ一台すら通らない田舎道。但し、目の前には恐ろしくなるほど鮮明に、まるで牙を剥いて襲ってでもきそうな姿の玉龍雪山が荒々しくも立ちはだかっているようにみえる。標高5,500mの屋根。麗江が、標高2,400mだから、その差は3,000m以上もある。なにか、この世のものとは思えない景色が、今眼前に広がっているのだ。きっと、その景色をわたしは一生涯忘れることはないだろう。
結局、名医といわれる和先生には、会うことはできなかった。わたしは、元来た道を引き換えして麗江の町に戻ったのだった。
麗江は、これまで行った中国のどこの町よりも居心地がよかった。納西族の人々は穏やかで優しかったし、ご飯も景色も素晴らしかった。
だから、気がついてみて5日という時間が流れていたのであろう。
そして、時が経つのを忘れてしまったのは、その他にウナと朴さんと過ごす時間がとても楽しかったという理由もあるだろう。
朝と夜には必ず一緒にご飯を食べ、夜は宿で遅くなるまで語り合った。日本と韓国のこと。これからの旅のこと。旅を終えてからの自分の夢。様々なことを遅くまで語り合った。
ある日のこと、朴さんが唐突にこんなことを言った。
ウナを目の前にして、「僕の好きな人は今、目の前にいる人だ」と。
わたしは、突然の朴さんの告白に目を丸くした。
「ウナ、よかったねぇ」とでも言えればよかったのだが、突発的なことで、何も言うことができなかった。だが、その言葉を聞いたウナの反応のほうがもっと驚いた。
「アラッ、ソウ」。
日本語と全く同じ意味のハングルでウナは返した。ウナよりも、4歳年下の朴さんの顔は泣きそうに歪んだ。
どうやら、わたしは2人にとってお邪魔虫なのかもしれないな。そう思いながら、翌日 わたしは、今日にでも大理に戻ることをウナに告げた。実際、ヴェトナムへの入国の期限は、あと4日しかなかった。この間に大理、昆明、そしてヴェトナム国境の町へ行かなければならない。
わたしの時間も迫っていたのだ。
すると、ウナは間髪入れずにこう言った。
「わたしも行くわ」。
ウナの目はまっすぐにわたしを見つめていた。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん氏と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
当時のわたしより2歳ほど年上だった。
どこをどういう風にして長期旅行に出てきたのか分からないが、とにかく、西の果てまで行ってやろう、という気構えに彼女は満ち溢れていた。
ウナは決して美人ではなかったが、とてもチャーミングな子だったと思う。
大理は高地で朝晩ともに冷えるのだが、その度にわたしは「寒い寒い」を連発していると、そのうち彼女もその言葉を覚えて「サムイ」と言うようになった。
彼女には、朴さんという男性の連れがいた。
この2人が、どのような関係なのか、わたしには関係のない事だったし、聞いた所でどうにもなることでなかったので何も詮索などしなかった。
ただ朴さんは、慶応大学の留学生であったために、日本語がペラペラで、3人で会話するときは、朴さんを通じて日本語で話すときが多かった。
ウナに連れてきてもらった安宿の「四招」は、すこぶる快適だった。
ドミトリーで1泊10元。小さな体育館のような建物に、床は地べた。ほとんどの客は西洋人で、東洋人は我々しかいなかったが、部屋の中は暖かく快適な宿だった。
大理の朝は遅かった。朝の8時になっても、まだ外は暗かった。中国はあの広大な面積を持っていながら、時差を設けていない。だから、こんな西南の果て(緯度でいえばホーチミンとほぼ同じ)まで、来ても日本と時差は僅かに1時間しかないのだ。1月下旬の朝は8時を過ぎても太陽は昇らなかった。
こうして、大理での3日間は瞬く間に過ぎていった。
この間、わたしは、二招に泊まっているM浦さんを訪ねたりするだけで、ほとんど何もしていなかった。
夜になれば、近所の安料理屋で、簡単な中華料理をウナと朴さんを囲んで食べる程度だった。
大理に着いて3日目の夜。そろそろ、わたしは雲南省の美しき都、麗江へ向けて出発しようかと考えていた頃で、翌日出発する、と彼らに告げたのだった。
すると、ウナもすぐさま「一緒に行く」と言い出した。
大理から麗江まで、バスで6時間。たいした距離ではない。
だから、きっとウナが、そう言ったことには、何の他意もないはずだっただろうし、そのときのわたしも特に何も感じなかったのである。
こうして、わたしとウナ、朴さんの3人で翌日、ミニバスに乗って大理を後にしたのである。
麗江。
雲南の少数民族、納西族が約800年前に作ったとされる町。名前の通り、山紫水明の麗しき水の町である。
日本語読みで「れいこう」と読んでも、耳慣れぬ響きに異国情緒を多いに駆り立てられるが、中国語読みで「リージャン」と読んだほうが、より一層この町の静謐な美しさに触れられる気がする。
古城の町の景観が世界文化遺産に登録されたことから、最近では日本のマスメディアにも多く露出され、日本人観光客にも人気を博しているようだが、10年前の麗江は、ほとんどバックパッカーしか行かない場所だった。
何故、雲南の山奥にこんな豊かな町が作られたのだろう。麗江の町並みを眺めると、そんな疑問が沸いてくる。
古城の瓦屋根の町並み。朝日に光る石畳。水清らかな水路。色とりどりの衣装に身を包んだ少数民族。町でよくみかける老人の納西族の方々は必ず青い中山帽を被っている。
昨秋、NHKで放映された「探検浪漫 世界遺産」によると、麗江は「茶馬古道」と呼ばれるお茶の貿易の要衝の地。チベットの拉薩から、遠くはインドシナ半島までをお茶の交易によって、栄えたのだという。
とにかく、その町並みはアッと息を飲むほどに壮観な景色だった。
その壮大な眺めは旧市街だけではなかった。
我々が宿泊する麗江賓館からは標高5,500mという玉龍雪山の白い雪を頂いた美しい山が一望できた(写真)。
一度、レンタサイクルを借りて、麗江の町から8kmほど離れた白沙村という村落までサイクリングをしたことがある。
そこには、和さんという高名な漢方医がいるという。もし、運がよければ、薬を処方してもらえるというので、お袋に一服持って帰れればいいかな、という気持ちで出かけてみた。
辺りには、何もない荒野の中の一本道をただひたすら自転車のペダルをこぐ。ひとっこひとり、クルマ一台すら通らない田舎道。但し、目の前には恐ろしくなるほど鮮明に、まるで牙を剥いて襲ってでもきそうな姿の玉龍雪山が荒々しくも立ちはだかっているようにみえる。標高5,500mの屋根。麗江が、標高2,400mだから、その差は3,000m以上もある。なにか、この世のものとは思えない景色が、今眼前に広がっているのだ。きっと、その景色をわたしは一生涯忘れることはないだろう。
結局、名医といわれる和先生には、会うことはできなかった。わたしは、元来た道を引き換えして麗江の町に戻ったのだった。
麗江は、これまで行った中国のどこの町よりも居心地がよかった。納西族の人々は穏やかで優しかったし、ご飯も景色も素晴らしかった。
だから、気がついてみて5日という時間が流れていたのであろう。
そして、時が経つのを忘れてしまったのは、その他にウナと朴さんと過ごす時間がとても楽しかったという理由もあるだろう。
朝と夜には必ず一緒にご飯を食べ、夜は宿で遅くなるまで語り合った。日本と韓国のこと。これからの旅のこと。旅を終えてからの自分の夢。様々なことを遅くまで語り合った。
ある日のこと、朴さんが唐突にこんなことを言った。
ウナを目の前にして、「僕の好きな人は今、目の前にいる人だ」と。
わたしは、突然の朴さんの告白に目を丸くした。
「ウナ、よかったねぇ」とでも言えればよかったのだが、突発的なことで、何も言うことができなかった。だが、その言葉を聞いたウナの反応のほうがもっと驚いた。
「アラッ、ソウ」。
日本語と全く同じ意味のハングルでウナは返した。ウナよりも、4歳年下の朴さんの顔は泣きそうに歪んだ。
どうやら、わたしは2人にとってお邪魔虫なのかもしれないな。そう思いながら、翌日 わたしは、今日にでも大理に戻ることをウナに告げた。実際、ヴェトナムへの入国の期限は、あと4日しかなかった。この間に大理、昆明、そしてヴェトナム国境の町へ行かなければならない。
わたしの時間も迫っていたのだ。
すると、ウナは間髪入れずにこう言った。
「わたしも行くわ」。
ウナの目はまっすぐにわたしを見つめていた。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん氏と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
いい感じで引っ張ってるけど、なんつっても
師だからなあ・・・。
でも、どうなるのか興味津々だよ。
>なんつっても師だからなぁ…。
やはり、鋭いな。
師よ。