小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

私たちの憲法は、何故にガラパゴス化したのか

2017年08月03日 | 国際・政治

 

 

 先週のビデオニュースで平和構築が専門の国際政治学者、東京外大の篠田英朗が登場した。この方の日本国憲法学の見方が斬新でかつ、一言でいえばこれまでの憲法学者の業績をコケにするほどの潜在力がある。新発見ともいうべき解釈、現代的な鋭い見方や指摘、国際法をベースにした国際協調や平和構築という観点は、私にとっても目から鱗となるニュースとなった。

私はど素人であり、いわゆる東大法学部系の憲法学者による解釈に頼み、ある意味鵜呑みにしてきた。憲法の前文にあるように、国家(行政府)を「信認」せざるを得ない。とはいえ、虚心坦懐に自分なりに憲法と解釈本を読み込むと、うーんと疑義を挿みたくなったり、こういう場合には迷うなとか、これは判断保留だなと、いっちょ前に考えることもあった。

篠田の主張していることは、確かに凄いポテンシャルを秘めている。最近刊行された筑摩新書「ほんとうの憲法」をざっと読んでもみたが、従来の憲法議論を改変する、あるいは見直しを迫られるのではないか。なにしろ、伝統と権威にどっぷり浸かった憲法学のホンネがあるとしたら、「占領軍が憲法典を起草したという事実を消去し、アメリカの幻影を払拭したい願望」に支配されていることを見抜かれている。

新進気鋭の憲法学者、木村草太も、そのレトリックが従来の憲法学というか師匠筋の文脈に沿うようにしか解釈できていないことになる。

ともあれ、自分の憲法観を点検するはめになってしまい、川島武宜から丸山真男、小室直樹、長谷部恭男などを読み返し、芦部信喜、石川健治などは無理で・・、とにもかくにもこの老いぼれ脳がパンク寸前となった。

篠田が言うことには、明治期以来の東大法学部憲法講座の伝統が、権威にまみれた象牙の塔をつくった。それこそが日本の憲法学をガラパゴス化した元凶であるとのこと。

たとえば、中学の社会科で教わる「国民主権、基本的人権の尊重、平和主義」という三大原理も、この3点セットとしては何処にも言及されていない。少なくとも国際法からの視座、国際協調主義に基づく平和構築から憲法が解釈されていないと、篠田は批判的だ。

 言に従って、初心に立ち戻って憲法の総論ともいうべき「前文」を読んでみれば・・。最後の方はまさしく国際関係の重視国際協調主義が力強く主張されていることは間違いない。

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。




但し、篠田英朗がいう国際協調、国連憲章のもとの平和構築をめざす場合、いうまでもなく日米関係をデフォルトしない限り、新たな安全保障は構築できない。もちろん、憲法の見直しと書き換えも、充分な時間をかけて行なう必要がある。彼は、立場主義、売名行為で論を張る方ではない。平和構築における実際のフィールドでも永年ご苦労され、実績も重ねられてきたようだ。去年、「集団的自衛権の思想史」を上梓して吉野作造賞をうけた。彼の豊かな知見から真摯に学ぶべきことは多いだろう。

篠田英朗氏にたいして、憲法学界からの正面切っての反論を待ち望むところだが、どうだろうか。

いったんこの記事は小休止にする。中途半端ながら、いちおう自分で決着をつける形にしないと前へ進まないのだ。また、ある人から「小寄道さんは、そんな繊細な方なんですね!」と誉められたのか,揶揄われたのか知らないが、それで調子を崩して、論理的思考モードが完全に喪失してしまった。中断したままの「自問自答」とも重なるテーマなので、さらなる精進が必要なんだろうな。


追記:本記事を記載後に篠田英朗のブログがあることが分かった。→http://shinodahideaki.blog.jp/archives/6748828.html   

 すべてを読んではいないが、池田信夫の評価に自らが好印象をもつ記事があった。多少割り引いて篠田の仕事を検証したい。国際関係・国際政治情勢のみを重点化して日本国憲法の特殊性を考察すると、戦争忌避の国民感情を捨象しがちになりはしないか。ということは、国際法に則った合理的な自衛権を考えるとき、ある種のバイアスがかかる。これからも丹念に、篠田英朗を追っていく必要がある。(8/4  0:20記)


追記:下線部分を訂正した。憲法の専門家⇒国家(行政府) 交戦権⇒自衛権(※)  政治⇒国際政治情勢  

 以上の3点を修正した。(※)国連憲章においても、「戦争してはならない」と戦争禁止条項が明文化されている。つまり一般的な交戦権は禁止である。個別的自衛権は認められている(国家、国民の財産の保全、生存権などの保全が目的)集団的自衛権も同様に国連憲章では認められているが、なんらかの縛りがあると思われる。でなければPKO法をつくる必要がない。ここまで来ると、正直言ってお手上げ状態になる。速やかに移動されることを願う。(2017.8.5記)

   


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