小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

生誕120年棟方志功展から

2023年11月26日 | 芸術(映画・写真等含)

過日、竹橋の東京国立近代美術館で開催している『棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ』に行ってきた。前回と同様に妻のたっての要望。祝日の前日、陽気はことのほか桂く、文句なしの散歩日和に思えた。疲れることは承知の上だが、ガウディ展のときのような混雑はないとの情報もあり、「まあ、行ってみるか」と重い腰を上げたのである。

棟方志功は、子供のころから知っていた。その頃は芸術に特に親しんでいたわけではなく、知らぬまに向こうからやってきた、そんな感じの芸術家である。岡本太郎、山下清、梅原龍三郎、洋画家ではゴッホ、ピカソ、ユトリロらも同列である。当時、地元の芸術家といえば横山大観だが、岡倉天心との相違が分からず、とにかく偉い日本画家というイメージが勝手にこびりついている。

棟方志功は、テレビでみたり、映画館でみる本編の間のドキュメンタリーで観たのが記憶にあるのだが・・。ともかく優雅とか繊細さを超えて、精神力があたえる力強さで美をつくる、それが棟方志功の人物像だったかな。

板にへばりついて、一心不乱に彫刻刀をがんがんと突き、彫りすすめる。目と板の間がわずか10センチほどの距離で、全身全霊で格闘している凄い人。そんな子どもの頃のイメージは、かなり持ち続けていたかもしれない。岡本といい、山下といい、芸術家というものは、どこか普通の人とは異なる。そんな偏った印象を棟方志功にも抱いてしまったのだ。

色の使いかたに驚愕する、全体の構図のセンスが優れている、何か訴えてくる主題がある、などといった美術的な鑑賞眼は、中学生のころに持ちはじめた気がする。それから何故だろうか、棟方志功は小生の美術家の枠から、ぼんやりと消えてしまったかもしれない。

しかし50の齢をこえて、松岡正剛の『千夜千冊』を読んでいたとき、棟方志功をやたらに誉めていたのには驚いた。(『板極道』525夜・意表篇・2002年4月24日)当時は今と違い、コンパクトで適確な書評を日々連載していた。実は、この記事について全く失念していて、帰宅してから撮った写真(殆どが撮影可)を見返しながら、松岡の棟方観をじわじわと思い出したのである。以下は、その記事のなかの書き留めたいものを引用する。

■棟方志功の『大和し美し』を見たときは腰を抜かした。20枚続きの大作の乾坤一擲。昭和11年(1936)の第11回国画会展に出品された作品。それをのちに棟方志功展で見た。絵よりも文字が多い。美術であって美術ではない。文字が多いが、書ではない。はたして作品といえるかどうか、そのことすらをも突破している。嗚咽であり激闘である。いったいこれは何だ、というものだ。

■ぼくは棟方志功を特別視しすぎていて、異様な天才とおもいすぎていた。その生涯にひそむ努力や貪欲がわからなかった。涙や信仰がわからなかった。それが本書や『板散華』や『わだばゴッホになる』を読むうちに、やっと愕然とさせられた。

■「押した一点、置いた一点、大小を考察し、そのちりばめた白地を持たして意味深長。引いた一線、走る一線、長短を考察し、その配置に白地を持たして意味深長」などと綴る人とはおもえなかった。もっと激突に表現衝動が溢れている異能者だとおもっていた。しかし棟方志功は、ぼくが最も注意深く、謙虚に、憧れをもって学ぶべき人だったのである。

今回の展覧会には、松岡正剛の上記の指摘はすっかり忘れていたわけだが、松岡の3番目の指摘にあるように、点・線、その配置と全体にしめる白地のバランスなどは特に見入ったし、仏像や動物の造形、デザインがこれはと思ったものをポストカードで選んだ。だから、尻を叩かれたとは書きたくないのは山々なれど、この眼で棟方志功を見ることができて、しごく満足している。

 

 

 

 

 

 

 

買いもとめたポストカードは以下の2枚だけ。渋ったというより厳選したつもり。他にもたくさんあるので・・。

 

 

 

追記:体力は限界ちかくであったが、MOMAT館(所蔵作品展)に足を伸ばした。なんと身体がふるえるような、嬉しい驚きに遭遇したのである。それはまた次なる機会に・・。やはり連鎖は続くのか・・。

 

 

 

 


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