小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

泥沼の未来へ ②

2017年10月30日 | 国際・政治

 

「泥沼の未来」の続きだが、冗長かもしらん。太字のところだけでも見ていただければと願う。

ある言説がある。「日本は歴史的に外敵に襲われることはあまりなく、それよりも自然災害大国であったため、都市を城壁で囲まず、曖昧な日本語と共に、勤勉な国民として発展してきた。」(出典忘れ、センテンスもぎくしゃくだが、言い得て妙なのでメモに残す)

曖昧な日本語とは、たとえば「政府の負債」を「国民の借金」と言い換えて、本質をぼかすようなことだ。日本全体のGDPまたは収支計算でもいい、国、企業、国民の3つに大きく分けてみる。国民の収支はほぼトントン(預金はある)。企業は全体でいえば400兆円ほどの黒字(ためこみ)。次に国、政府の負債は1300兆円ほどある(見方で異なる)。

事業主体としてみれば、国(政府)だけが完全に失敗している。なぜか、その責任は問われない(なぜなら官僚の無責任体制は戦前より継続されているから)。安倍ブレーンが実効支配する日銀の金融緩和政策は、その効薄しとする市場の見込みが濃厚で、税金で穴埋めするしかない方向で推移している。つまり、ツケは未来に回すという日本独特の悪しき発想、つまり「泥沼の未来」だ。その未来打開にむけての解決策、処方箋さえも示すことができない。

現在、日米ともに株高で金融経済は好況を示しているが、実体経済は先細りが見込まれ、日本の基幹産業は低迷したまま推移してゆくだろう。東芝やニッサン、そして神戸製鋼など日本の「モノづくり」産業のトップ企業が、欺瞞的生産、品質管理面の隠蔽体質が露わになり、日本ブランドの信頼力を貶めている。

これらは氷山の一角でしかなく、先に書いたように「曖昧な日本語で、本質をぼかす」ような日本人の思考パラダイムがついに行き詰ったことを示すものだ。(3.11以降、東電を倒産させなかったことが嚆矢で、経済の悪循環に拍車がかかった。東電はある意味で日本経済の屋台骨であり、多くの日本人の拠りどころとなる企業。しかしあの時には、日本航空のデフォルトの時のような鮮やかな英断、荒療治がどうしても必要だった、と筆者はおもう・・。)

(歴史的経緯における、戦前の個人的分析:以上のプロセスというか追いつめられた状況は、戦前の日本にますます似かよってきている。第一次世界大戦後に日本経済は活況を示したが、その国益をほとんど軍事大国化に費やしたといっていい。ところが世界不況が起こると、国策経済の立て直しと増強だけに集中し、欧米型の植民地からの収奪を模倣する帝国主義政策にまい進する。なんと欧米からの批判(やっかみ)があるも、国際ルールを無視してまでも満州を侵略した。その植民地政策は当初、予想を超える石炭の採掘、国家犯罪ともいうべくアヘン栽培などで、潤沢な資産を生みだした。その余剰利益を広く国民におすそ分けするなど、「救国済民」・「国体護持」を盛り上げる演出をした。それが元で英米による石油等の経済封鎖がおこなわれ、ますます追い込まれ軍事的強大化に進んだ。今の「北」のどこかの国によく似ている部分あり。)

 

さて、これからはどうなるか。アメリカという強国とタッグを組んで「軍産複合体」の現代型・新帝国主義への展開か・・。それはさすがにないか。もちろん、アメリカにしても露骨な帝国主義的なふるまいはできない。国際的な大義なり、国内的にも支持される正義、道義が得られた上での「戦争経済(※)」の創出である。中東のISが弱体化した今、北朝鮮がいわゆるヒール役になるしかない世界情勢。(11月のトランプの来日はその布石?)

平和か戦争か・。その世界情勢の趨勢をにぎるのはやはりアメリカなのだ。そのハンドラーとしての歴史は、戦争と経済、軍事とテクノロジー、成長と移民、政治と宗教がそれぞれセットになり、有機的に結合して発展してきた。これらが回転しなくなると、最初のステップとなる「政情不安=紛争」をCIAなどが創出あるいは演出する。この一連の動きはまさしく「陰謀」といっていいし、「ドル箱」として機能してきたと考える。

偏見、無智、強欲、この3点セットのトランプが大統領にのし上がったのも、そういう世界情勢の暗躍をしてまで国力を維持してきたUSAの中枢、つまりWAPSエスタブリッシュメントやユダヤ金融資本というバックボーンの必然的な要請に基づくものだ。

 となれば、わが国の政策担当者は、国家事業的失策を糊塗するためにアメリカとの同盟をますます強固にする(金魚の糞に徹する)。対外的には、あらゆる点において信頼を失い、アメリカとの協調路線で過去のレガシーさえも失うだろう。アメリカが「原爆」を使用し、日本がその「被爆国」になったという事実である。この決定的に峻厳なるものが脱色され「無名無実」となる。「ヒバクシャ」は歴史上、透明な人間だったとされる。

「被爆国」ということは、核戦争への限りなき大きい「抑止力」をもつ。このことの意味のポテンシャル、未来へのパースペクティブを、もっと声高に叫んでもよかったのではないか・・。(今、筆者は指摘したが、また同様のことを誰かが言っていたとしても、取るに足らない言論として潰されるに違いない)。

どの国にも持つことのできない「ヒバクシャ」と「被爆国」という、事実のことばの重み「抑止力」、その国際的な政治外交ステータス。これを掲げることで、実は世界をリードするほどの「平和外交の雄」になれるものを、みすみす見離すという政治的決断をした。わたしたち日本人は、誰もが持ちえない「抑止力」を捨て去った。そして、持つべきではない殲滅への野望、「核の抑止力」の保持を志向しつつある。

先だってのNGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)がノーベル平和賞受賞した時にも、日本政府はなんら公式のコメントも発表せず、知らぬ存ぜぬの態度を決め込んだ。「被爆国」であるのに、核保有国が参加しないなら意味がないなどという屁理屈は世界からの笑われた、「核兵器禁止条約」への不参加。もちろん、これはアメリカの圧力に屈した証左で、知らないのものはいない。(12月の平和賞授賞式に、「ICAN」と共に広島・長崎の「ヒバクシャ」が出席することになった。喜ばしいことだが、その事実を未来につなげてほしい)

未来の子どもたちは、ただ嘆くだけでなく、我々の無思慮・無知な選択を呪うだろう。そして、戦争に加担し血を流すことを厭わない祖先の、自分たちが末裔であることをどうやって克服していくのか。
泥沼を歩かねばならない宿あ、彼らの未来・・。

 

追記としての覚え書:この国の政治家は、マックス・ウェーバーが理想とした人間、いまから100年ほど前の「職業としての政治」に提示された、古典的ともいえる政治家を模範としなければならない。その資質は「責任感、判断力、情熱」である。この情熱とは「事柄に即するという意味での情熱で、仕事・対象・問題・現実にむけての情熱的献身」である。ウェーバーの場合、キリスト教の「情熱的献身」が色濃く反映されているので、我が国の場合には、ボランティア精神だけでなく実質的な価値のある社会的名誉が付与されることがのぞましい。この付記を何故記したかを説明しようすると長くなる。筆者の頭の悪さ、整理能力のなさを露呈するのでいったん筆をおく。

 

(※)戦争経済 とは、戦争による生産・消費(蕩尽)のこと。軍事(武器・弾薬等から情報、核などの開発費すべてを含む)に関わる経済的費用のこと。仮想敵に対する軍事費用を初期段階とすれば、テロ、地域限定、さらに陸海空軍による全面、そして核戦争への段階があるが、最終段階ではもはや戦争経済は破産するしかない。

 

前回の続きでアラバマ・シェイクス。戦わない、カッコつけない、それがほんとの勇気。

Alabama Shakes performing "Don't Wanna Fight" Live on KCRW

 


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