小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

「この国のかたち」その行方

2016年02月20日 | うんちく・小ネタ

 

先週と先々週のNHKスペシャル、「司馬遼太郎の、この国のかたち」は、第一集と第二集の2回で終了したのであろうか?(第三集があると予感させるのだが・・)
まさかと思う。これで終わったら腰砕けも甚だしい。第一集は、「島国ニッポンの叡智」というテーマだった。
日本という島国が辺境であるがゆえに、外来のモノ・ヒトをスポンジのように吸収する。それが日本ならではのエートス(文化的慣習・風土)として根付いたということか。

番組では、鎖国下の長崎・出島の「好奇(こうず)の心」や、大陸への玄関口・壱岐の異国崇拝の風習、東大寺に伝わる神仏習合の秘儀などが紹介された。ビジュアルになりやすいものを脈絡なく、いや最初だから取っ付きやすいものを選んだという印象が如実だ。「司馬遼太郎の、この国のかたち」は大河ドラマのノンフィクション版ともいうべき題材。だから、掴みとしてはこんなものかと思った。

第一集を見た感想として、日本は島国であるけれど、極東のたんなる辺境だと私は思えない。司馬も殊更に辺境性を強調したことがあったかどうか。
むしろ大陸からの豊かなリソースが集約される、稀なる土地柄といっていいのではないか。つまり、ヒト、モノ、技術、情報つまり豊穣なる文物、そのすべてが連なる弧の列島へ集合する。少なくともイギリスとは違う地勢の島国である。

ご存知のかたもいるだろうが、逆地図を参照すれば、ロシア、中国からみると、日本は大陸の出先である。日本海は静かなる内海にみえ、交易や移動が旺盛な様がうかがえる。また、外国の戦力あるいは津波のような災害どちらでも、太平洋から脅威が押し寄せた場合、日本列島は防波堤としてガードしているかのようだ。逆に、大陸から外海への伸展する場合、がっちりと阻止されているかに見えるだろう。
この辺の考え方はもちろん司馬遼太郎だけでなく網野善彦の考え方にも拠っている。

そもそも「この国のかたち」は1990~1996年、月刊文藝春秋の巻頭エッセイとして連載された。原稿用紙で14,5枚ほどの分量であるが、主題の切り口が斬新かつ的確、日本の優れたところ、特異点などを浮き彫りにした。日本の思想、歴史に通じていない当時の私のような素人にとって、「この国のかたち」は色々な角度から読み解いてくれる貴重な書であった。

発表当時はバブルが弾けて日本人全体が自信喪失したかのような雰囲気があった。その低迷は何に起因しているのか、私たちに自省を促し、日本人として矜持すべきものを提示してくれたのである。
私は文庫(全6巻)になってから読んだのであるが、体系的な論文でなくエッセイであるため読みやすい。それでいて「国のかたち」という日本の根本がどのように成り立ったか、それを通奏低音として沁みるように意識され、テーマが違っていても一篇一篇が楽しく、味読できたのである。

さて、第2集は 「“武士”700年の遺産」というもの。第一集よりもテーマが絞り切られたせいか、内容の濃いものとなった。

下層農民が年貢を逃れて支配の及ばない土地を開墾する。貴族の荘園の用心棒でもあった半農のゴロツキ。関西より東へ流れた坂東武士がやがて氏を名乗り、大きな勢力圏を形成する。
そして鎌倉に天皇公認の幕府をつくる。この時代の武士たちは「私利私欲を恥とする“名こそ惜しけれ”」という精神を確立。それは江戸、明治までも承継されるエートスとして、「武士=侍」という階級が醸成された。

司馬遼太郎は、武士はカタチとしては奇異だが「人間の芸術品」とまでいう。下級武士から藩主まで“名こそ惜しけれ”の精神を貫き、明治における近代化においても原動力となった。
その「痛々しいほど清潔」な彼らは私心を捨て、常に「公」という大義を重んじた。このことだけを以てしても、キリスト教に基づくボランティア精神を凌駕すると、西欧の人たちは「サムライ」という精神的存在に驚嘆したのである。

番組内ではその武士の子孫が弓道を極め流鏑馬している映像を流すなど、絵になるものを象徴的に扱ったハイライトシーンは良かった。

この第2集の放送後、続きの案内がなかった。これで終わることはなく、あらためて放送するものと思われる。

 

後編がどんなものになるか。私の願望をふくめてそのテーマを予想してみよう。

「この国のかたち」の目次タイトルと関連付けてカテゴライズした。土地、時代別は省略し、あくまで私見によるテーマ設定である。(全6巻のインデックスの内容をすべてフォローしていない。また、省略・簡略もしている。後に改変する可能性大である。あしからず)

●仏教(神仏習合) 空海 華厳 浄土教 親鸞・法然 聖 御坊主 神道(8) GとF 

●天皇 統帥権(5) 文化・宗教の担い手 尊王攘夷 精神的支柱として 稲・農業の祭祀者

●文化  浄瑠璃 声明・木遣 外来 看羊録(2)、儒教、宋学(5)、朱子学、オランダ、ドイツ、長崎)

●ことば 言語について(7) 漢意から大和ことば 蓮歌 13世紀の文章語 小説 かなの発明

●モノづくり 職人 師承、社 鉄(5) 甲冑 庭 杉・檜・松 漆 船 醤油 洋服

●制度 海軍(5) 遷都 藩 侍の役割 若衆 階層と階級 苗字と姓 会社的公 

●商売 金・銀座 株 市場 富の分配 

(カッコ内の数字は、同一タイトルで連載もしくは再度扱われた回数。例えば、神道は連続して7回、期間を経て1回の計8回。もちろん他のテーマにおいても神道にふれられているがカウントしていない) 

 

今の時点で、「この国のかたち」が今後放映されるかわからない。このシリーズで「天皇」をどのように扱うのか楽しみであったし期待していた。

司馬は日本文化の骨格、中枢を担う存在として天皇の意義を認めている。三島由紀夫も私(四十になってからだが)も同じで、統治・支配者としての役割は失っていると解釈する。人々の不幸や災厄を癒す、或いは安寧を祈願する祭祀する姿を想いうかべる。今生天皇及び皇后は先ごろペリリュー、フィリピンに行き鎮魂した。東北はじめ各地の被災地に行き、慰霊とお見舞いをされている。これらの行為だけでも私は深く崇敬の念をいだく。

 

番組でも紹介されていたが、日露戦争に勝利した後ポーツマス条約でその内容が発表された。万全の勝利ではなかったが、その戦果が薄いものとして人々は怒り、日比谷焼打ち事件が起きた。それを起点にして、日本の軍部および国民は、「異胎」いや「鬼胎」の時代に入った、と司馬遼太郎は慨嘆した。そして、軍部による統帥権についての異様な解釈が、昭和日本に罷り通ったことによって、天皇の「軍神」としての一面が異様に強調されたのである。この見立ては司馬の卓見であるが、私としては明治維新においてその萌芽があると思っている。

この国のカタチがどうなっていくのか。

生殺与奪の権を握るのはむろん政権の長であるはずがない。私たち自身であり、私たちが決めるべきものだ。

 

 

 


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