小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

フリーメイスンに関する極私的覚書(1)

2017年09月28日 | うんちく・小ネタ

 

 

 フリーメイスンといえば、秘密結社あるいは陰謀を企むユダヤ人組織などと、都市伝説の手垢にまみれた話が多い。中世ヨーロッパにおける石工職人たちのギルドを嚆矢とした秘密結社。と、世界史の教科書ではほんの一端が紹介されている。歴史書や小説、オカルトに近い類の読み物では、戦争やら革命のときに暗躍する秘密結社として、あるいは国家を揺るがす策略家・ユダヤ人がフリーメイスンの背後で操る。そんな実しやかな陰謀論などが興味本位に書かれていたりする。

フリーメイスンは現在、自由主義諸国であるなら世界中に存在し、一国の中にも何十もの結社(ロッジ)があり、それを束ねるのがグランロッジということになっている。日本には小さなロッジ(結社)はないのに、GRが東京芝公園に存在していることはつとに有名。(各地の在日米軍基地のなかにロッジがある? フィリピンのメイスナリーはここに参集する)

ひと口にフリーメイスンといってもアメリカとヨーロッパでは大分違うそうである。

アメリカでは、初代大統領ワシントン、建国の父といわれるトマス・ジェファーソンらのフリーメイスナリー(メンバーの呼称)がイギリス植民地からの独立を勝ち取った中心メンバーであった。だからアメリカの独立戦争は、フリーメイスンの陰謀・策略によるものだという言説もあるが、いうまでもなく都市伝説の類「トンデモ」でしかない。1ドル紙幣に見られるユダヤ教のアイコンを引合いに出しても、キリスト教のカソリックでもプロテスタントにとっても、それは同祖。ユダヤ教を象徴する様々なイメージ(アイコン)が登場しても不思議はないし、そこに深い意味もない。

そういった宗教的な秘密結社という側面ではなく、人間活動の実利に価値をおく会員制組織として特化した結社をイメージしてほしい。それがアメリカのフリーメイスンの要諦であり、考えるうえでのキーポイントなり妥当性があると思う。なぜなら、ヨーロッパ各国からの移民、その多様な価値観をもつメンバー構成を考えるとき、宗教的な精神性をバックボーンとして設定するよりも、経済的な実利、損得という価値観を優先に考える方が同調性は高まる。宗教的原理にこだわる人々は去っていくだろうし、功利的野心の傾向がある人が集まるなら、世俗的なことを口に出さなくても同士の結束力は強くなる。これはあくまで私の見立てであるが・・。

 

 


ところで、フリーメイスンについては、なによりも竹下節子氏の著作『フリーメイスン』に多くの知見を授けられた。副題が「もう一つの近代史」とあるように、西欧の比較文化通史を読み終えたほどの充実感があるからだ。

フリーメイスンの本質をこれほど多彩に論じ、調べあげた著書を他には知らない。正直に書けば、わが身を侵食したある種の陰謀論、その強いバイアスによる「蒙」がこの書によって啓かれた。まず、そのわたし自身の「蒙」の偏向・思い込みを書かねばならない。但し、そんなことは第三者にとってみればどうでもいいこと。で、今回の記事では軽くふれているが、スルーしていただくことが有難い。


フリーメイスンには、秘密の儀式による昇進制度のようなものがある。30(36)ほどの位階があるとされ、独特の面接や秘儀によりその段階を上っていくシステム。こうしたヒエラルキーがあるのは、キリスト教の儀式を踏襲し、それを石工たちの技能のレベルアップおよび結束力の強化として、位階の昇進システムがつくられたと考える。

以前なにかの書物で、上位の階(16?)に上がるとき、YHWHなる文字についての試験があることを読んだ。これはユダヤ教の律法(トーラー)でいうところの「ヤーウェ」の表記。国を滅ばされ、エジプトに追放(ディアスポラ)された後の、イスラエルの民が最終的に崇めるに至った神の名前である。神の名を口にしてはならぬ、その掟から母音なしの表記になったといわれる。

彼らからすれば選ばれし民として、峻厳な託宣は栄誉であるが桎梏ともなる。本当はここにギャップというか乖離があるはずなのだが。でも、とりあえず彼らの拠りどころの到達点を受けとめたわけでもあるし、その神の名を、書くことも発音することさえもはばかれた。(YHWHはアルファベットだが、当時はたぶんギリシャかエジプト語の文字表記だろう)。

フリーメイスンの位階を定めるイニシエーションには、ユダヤ教およびそれから派生したエゾテリズム(秘教)が色濃く反映されていると思っていた。当然のごとく、ユダヤ人の知能、言語能力、越境する才知、そして、資本蓄積と金融技能、それらを統合する上での組織・結束力などが相まっての、ユダヤ人首謀のフリーメイスンであると・・。(これが陰謀論の源にもなってしまった我が浅はかさ!)

でもしかし。考えてみれば、旧約聖書はユダヤ教の律法そのもの。それは、キリスト教にも継承されているし、プロテスタントや正教も同様である。別にYHWHが出てきてもおかしくないし、フリーメイスンそのものがキリスト教と強い親和性をもつ。(何が決定的に違うのかは、ユダヤ教がユダヤ人のみを対象とした法典として考えられている、つまり選民宗教である)

竹下氏の『フリーメイスン』には一神教の母体としてのユダヤ教、キリスト教カトリック、プロテスタントさらに「無神教」さらにエゾテリズムまで、これらの宗教性となぜフリーメイスンとの親和性が高いのか、ヨーロッパの長い歴史のなかから審らかにされている。

また、ユダヤ人がフリーメイスンに入会したり、ロッジによっては中心的存在として発展してきた。キリスト教との反目や軋轢はないのかと、私なぞは訝しむのだが、竹下氏はこう解説する。

西洋キリスト教の歴史のなかでユダヤ人は長い間「神殺し」というレッテルを貼られて差別されてきた。けれども、ユダヤ人から見て「ユダヤのラビ」であるイエスの言葉はユダヤ人の神髄であるということを強調すれば、キリスト教文化のなかで生まれたフリーメイスンの人類愛路線と矛盾することはない。表の世界では複雑な競技の迷路や、既成宗教組織が陥る排他主義や独善主義から逃れることは難しい。国際会議や人道支援団体も各国のパワーゲームや国際情勢の前で無力化することが多い。フリーメイスンがその緩衝地帯として「多文化多宗教」に共生の場を与え、たとえ「建前」だけだとしてもそのメッセージを公に発し続けていることには意義があると期待したい。(以上 第三章「フリーメイスンと宗教」p141 より)


ここでは「多文化多宗教」の緩衝地帯としてフリーメイスンの役割が強調されるが、私としてはやはり精神的な価値観よりも実利的損得の価値観に重きをおく、フリーメイスンならではの組織的機能に注目したい。歴史を遡るようだが、フリーメイスン成立の初源をもういちど確認してみる。

フリーメイスンとはその名の通り、「自由な石工」の組合あるいは結社の意味合いがある。そう、西欧いや東欧を含めて、ヨーロッパの歴史は「石の文明」を築きあげてきた。

ローマ帝国時代から石で何重にも舗装された道路をつくり、要所要所の交通を結んだ。そして、強固な石造りの城、城砦を築き上げたし、丘や谷を跨ぐ上水道を建設した。中世になってからは、爛熟したキリスト教は大聖堂(カテドラル)を各都市で建てるようになる。王侯も豪壮な宮殿、城、貴族たちも石造りの大邸宅を造った。

石工たちはまず、その敬虔なる信仰、深い宗教心をもった人々であることを理解しなければばらない。キリスト教という精神性のうえに、建造の技能が蓄積されたという構造である。この本質の理解が、私には当初足りなかった。

石工職人たちはそれらの建築に携わり、自分たちの建築知識、技能に磨きをかけたであろう。特に、大聖堂の建築となれば、工学、物理学、数学、幾何学、美術という途方もない量の高度な知識と技術の集大成である。さらに建築素材の石の産地、素材の性質、また生産地の情報収集、石の運搬など、そうした建築素材の専門家も必要とされたに違いない。

当時とすれば最先端のテクノロジーに通じた石工、技師、芸術家などの専門家集団がヨーロッパの各地で活躍していたのである。彼らが自分たちの権益、技能や情報を守るために独自のギルド、組合組織をつくることは極めて理に適っている。

フリーメイスンは、そうした合目的組織であり、ある意味で敷居の高い独自のシステムを作り上げていった。最初の方にも書いたが、いわゆる「ロッジ」という集会所なるものをつくり、それが支部をつくり、全てのロッジを束ねる最上位組織「グランロッジ」なるものをつくる。こうした背景は、ヨーロッパの近代化に呼応したものだ。つまり、産業の発展、植民地政策による帝国主義の発展、そうした動きにもフリーメイスンは呼応し、変容していった。

アメリカ合衆国では当初、ピューリタン系のプロテスタント移民たちが多かった。プロテスタントのほうがユダヤ教との親和性が高いし、ウェーバーの「プロ倫」ではないが資本主義、功利主義との相性がいい。やがて、アングロサクソンに続き、ドイツ、そしてフランスから、宗教の軛(くびき)から逃れて来て、いわゆる建国の理念ともいうべきユニバーサリズムを形成した。それは建前として、自由と民主主義を謳う組織が尊ばれる。近代人として生きていくべき知性、技能にあふれる人々は同志を求め、フリーメイスンのような結社に注目せざるを得ない。

キリスト教的な宗教儀礼があり、努力と技能が報われる位階昇進制度もあるフリーメイスン。やり手のアメリカ人はそこに人的ネットワークを見出し、実務と信頼の関係を築き挙げたと思う。しかし、時が経ち、そうした組織がやがて伝統主義・儀式偏重に陥ったりして古臭いものになれば、別の新しい組織をつくり、進取の精神をもつ人々はそこへ移行する。いわゆるロータリークラブやライオンズクラブはそうした経緯により発展したと考えられる。フリーメイスンの宗教性や秘密儀礼・位階の昇進性をスマートに脱色し、アメリカ人好みの実務・実益を重んじる「親睦団体」となった。

以上、フリーメイスンに関する私的な覚書の端緒としたい。

書きたいことはもっとあるが、自分の知識では体系的に書くことは無理だ。ただ、切り口をかえてフリーメイスンをもっと掘ってみたい。ということで、またいつか改めて読むに値する記事を!

 

▲少しずつ増えている竹下節子氏の著書。近々、新刊が出るとのこと。10月の演奏会もたのしみだ。



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