小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

「怠ける」という才知をもて

2017年06月14日 | うんちく・小ネタ

 

 

 

この国では毎年3万人以上の自殺者がいて、その中の第1位が若い人たちだった。そんな悲しいニュースが先日あったが、それを受けての続報なり、政府の見解・対策の話は届いてこない。マスメディアはいったん事実を伝えれば無しの礫を決め込んだのか、括目すべきフォローアップ記事もなし。

クールジャパンだ、やれオリンピックだと浮かれている場合ではなく、わが日本の若年者の自殺死亡率はなんと世界の第3位(WHOの最新報告及び厚労省調べ)だそうな。この報告にしても、遺書があるなど明確に自殺認定できるデータに基づくもの。原因が特定できない死、不審死などはカウントされていない。それらはたぶん限りなく自殺に近く、その実数はもっと多いと識者には判断されている。

(自殺死亡率の世界1位がリトアニア、2位が韓国で、いずれも日本の倍以上の高い数値、だったからマシだなんて・・まさか)。

明日をも知れない高齢者ならともかく、前途ある若者が希望をもてずに自死に至る。そんな悲惨たる状況に、政治家や企業家たちは、なんの痛痒を感じないでいられるのか、目を向けることさえも憚れるものなのか・・。

なんの因果か知らないけれど、近頃、就職状況は良く、売り手市場らしい。が、蓋を開けてみれば正規雇用は減少し、非正規とほぼ同等の契約を前提にした雇用形態が幅を利かしている。まして、ブラック企業、無残な残業時間、奨学金返還等々の問題も、いまだに棚上げ状態だ。

運よく就職できたとしても、企業内の環境にハラスメントや様々なストレスがある限り、心身ともに健全な将来のデザインは描けまい。一流企業であれば、それなりの成長戦略があるだろうから、求められる能力・技量は「超」の「超」。余程の覚悟なり、日夜の研鑽を積み重ねないと、強者はすぐに弱者に転落する。生き残った者は勝者だと高笑いできればいいが、何かを犠牲にしないとステータスを長年維持するのは、また「超」がつく困難な途だ

現在のブランドイメージが高くても、企業の未来はどうなるか分かったものではない。東芝の凋落を見れば分かるように、現在の安定なり評価など何の意味もないし、ブランドに依存する心性さえも許容されないはず。そうした現実の背景を鑑みれば、精神の安定やこころの平安は望むべくもない。

「メンヘラ」という言葉をご存じですか? 知らないとすれば、それは無知と云われても詮無いことです。いわゆる「鬱」の形態が、昭和の時代から変容していることを知るべきだと筆者は強調したい。

年金頼みの高年齢ゆえの高みの見物ではないかと誹りを受けそうだが、周りを見回しても悠々自適の安穏な隠居生活をしている人は一握りではないか。


ともあれ、若い人には自殺など考えていただきたくないし、現実の厳しさや辛さが迫っているとしたら、「怠ける」ことに全知全能を傾けていただきたい。

「怠ける」などもっての外、不謹慎だと批難されると思われるご仁もいるだろう。「怠ける」ことも一つの権利であり、「人権」よりも何千倍もの崇高な権利、人間として堂々と行使できる表現なのだ、という人が結構いるのだ。

筆者は、人間を動物学的にみても、「怠ける」という行為は、霊長類由来の営々として受け継がれてきた能力、切磋琢磨ゆえの生存本能なのだと考えている。怠けることは、拙速に結果を求めて失敗しないことにもつながる。ある意味で、それはネガティブ・ケイパビリティでもある。


怠けることに多少なりとも疾しさ、片腹痛いものを感じるという方がいるとしたら、以下の先人たちのほんの数行に目を通していただきたい。結構な勇気を与えてくれるかと思うのだが・・。

 

マルクスの次女ラウラの娘婿はフランス人、ポール・ラフォルグだ。マルクス・エンゲルスの著作を仏訳した思想家だが、後世の進歩的文化人に影響をあたえた著作も残している。なかでも「怠ける権利」という著作はその白眉で、「怠惰」「怠ける」という概念を道徳、精神性という枠を超えて、社会的な権利としての画期的な価値をあたえたとされる。さすがマルクスの、義理の息子だ。

・・キリスト教的、経済的、自由思想的道徳から生じた偏見を踏みにじらねばならない。自然の本能に復し、ブルジョワ革命の屁理屈屋が捏ね上げた、肺病やみの人間の権利などより何千倍も高貴で神聖な、怠ける権利を宣言しなければならぬ。一日3時間しか働かず、残りの昼夜は旨いものを食べ、怠けて暮らすように努めねばならない。

 最後にラフォルグはこう結ぶ。

 この一世紀、飢えが彼らの臓腑をよじらせ、脳髄に幻覚を呼び起こしている・・。おお「怠惰」よ、われらの長き悲惨を憐れみたまえ! おお「怠惰」よ、芸術と高貴な美徳の母、「怠惰」よ、人間の苦悩の癒しとなりたまえ!

 享楽的で刹那的なフランス人だからこそ言えるのか? 勤勉、実直、真面目をモットーとする日本人にむけて、「怠惰あれ!」などという不謹慎な言葉を投げかけるものはいないと思うか? お立合い。


弟ほど勤勉ではないが、英語の原書も読み、西洋の古典、学知の研究も怠らず、国文学の粋を極めたうえに「源氏物語」の個人訳も完遂した、あの大谷崎がなんといったか!

谷崎潤一郎に「懶惰の説」という短い評論がある。(この懶惰の「懶」の正しい漢字がPCにない。これでは「らいだ」という読みになる。正しくは「らんだ」で漢字のつくりが「頁」が正しい)

ここで詳しくは書かないが、「物臭」、「不精」、「億劫がる」ことは東洋的な知恵、才知なるものが宿っていると説く

「怠け者の哲学」があるように、「怠け者の養生法」もあることを忘れてはならない。

精力家とか勤勉家とか云われることに鼻をかけ、或はそれを自分の方から押し売りする人が多い世の中だから、たまには懶惰の美徳・・奥床しさを想起しても害にはならないと思うのである。


「怠け者」の礼賛でいえばドイツの軍人、クルト・フォン・ハンマーシュタインがいる。このひとは反ナチを標榜した本格的軍人で、働き者より怠け者のリーダーがいた方が軍の組織を有利に導くとしたことで有名。もしヒトラーがハンマーシュタインを採用していたら、「非凡なる悪の陳腐さ」を体現した働き者のアイヒマンはいなかったはずだ。(ハンナ・アレントは「凡庸なる悪」と表現したが、毎日ガス室にユダヤ人を送りこんだアイヒマンは、命令に忠実な非凡なる男だったに違いない)
ハンマーシュタインの分類では有能な怠け者は前線の指揮官向き。有能な働き者は参謀向き。無能な怠けものは総司令官、将校に。無能な働き者は、殺すしかない」という配属になっている。その理由、根拠は長くなるので省略する。

怠けることを考える人は、共謀罪などという野暮な法律は絶対に考えさえしないだろうに・・。




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