小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

中西進先生、『情熱大陸』に出演

2019年08月20日 | うんちく・小ネタ

新元号「令和」を提案された国文学者として時の人になった中西進先生が、なんとTBSの『情熱大陸』に出演された。新進気鋭の注目すべき人材はもちろん、陽の目を見ない分野でも、世界第一線で仕事する人間にフォーカスして、長期間にわたって密着するヒューマン・ドキュメンタリー。深夜帯にもかかわらず、知る人ぞ知る長寿番組である。

(テレビを観ない、それが知識人としての前提条件らしい。TV視聴は時間の無駄ではある、確かにそうだ。しかし、それは原理であるはずもない。そこに、仲間内の同調圧力があるとしたなら即ち、typical≒stupidであろう。「選択と集中」をこえる何か、そこに中西先生のテレビ出演の意味を感じた)

 

御年89歳、あの中西先生が、こういう番組に登場するのはなんとも珍しく、驚く。ちょっとしたご縁もあったので、尚更、気を惹かれたのだ(ビデオ録画した)。

中西進先生には、直々に教わったことがあった。小生は、今から半世紀前、予備校において「古文」の授業を受けたのだ(※注)。他の教科に較べても、格段に面白い講義で、古典を読解することの要点を、きわめて要領よく適確に伝授していただいた。文章のなかの言葉のつながりを分析し、名詞、形容詞、助詞など何が最重要のポイントとなるか、その奥義を見極めるコツを教えてもらった。

額が広くてやや長髪、黒い丸眼鏡が特徴ある風貌で、その落ち着いた声色で話される講義は、いまも印象深く忘れられない。いや、受験時のテクニックよりも、「やまとことば」の素晴らしさを知ったのは、中西先生の話を聞いたことが発端だった。大学の専攻は、国文学もいいかなと思ったくらいだ。

まあ、実のところは当時、仏文学に傾倒していた(日仏学院の通信教育は高校2年のとき、仏語で受験しようかと・・。チャランポランな性格は治らない)。懐かしいそのころの先生の写真が紹介された。あのころの我がパッションの源、その再帰を思いえがく。それにしても、中西先生の風貌。独特でしょ、印象つよいでしょ。

 ▲万葉集の研究では、この頃は急進的な立場であったはずだ。生活のために、予備校教師もやるのだと勝手に想像していた。

番組では、先生の八面六臂の活躍ぶりが紹介されていたが、いまもなお各地で万葉集などを一般者向けに講義しているようである。東京でのそれは100名も集まる人気セミナーで、半世紀近くも続いているという。小生が予備校に通っている頃とかぶる時期。当時、中西先生は40歳ぐらいで、新進気鋭の学者として引っ張りだこの人気があったのだろう。

『情熱大陸』では、ちょっと驚きの発見があった。現在は京都に住まわれているが、ご自宅には先生の年齢にしては若い奥様がいること。自宅の各所にふくろうの置物があること。図書館にも勝る移動式書庫があり、国文学者らしく漢籍を含む膨大な蔵書、歴史資料が披瀝された。

そのほか、パソコンは不使用で、鉛筆による執筆というのも中西先生らしい。また、これまでの各種の、学術論文の出版さえも企図されている。

先生のヘアスタイルは白くなったが、その姿・形にはあまり変化がないのは、いやはや羨ましいかぎり。

 

 ▲もうすぐ卒寿になろうという。10以上の肩書があり、幾つかは要職にある。招かれれば、全国に行く。その元気をいただこう。

 ▲唯一の共通点がふくろうグッズのコレクション(蒐集の動機は違うが・・)。いや、小生はもう中断した。

 ▲令和になって初めての「終戦記念日」に、入魂の一筆か。

 

最後に、中西進先生の文章を引用する。

日本人は和歌を通して言語遊戯を行なって来、それがことばにとどまらず、連鎖、重複、統合といった文化諸現象の習熟を促したのではなかったろうか。ことばだけに限っても、日本語が痩せなかった点に、和歌の貢献は大きかったし、さらに日本文化全般がまことに和歌的だといってよいのである。

 


(※注)JR大塚駅ちかくの「武蔵予備校」なのだが、中西先生以外の記憶がすっぽり抜け落ちていて、場所・人間の痕跡さえ忘却の彼方だ。


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