鎌倉の隠者

日本画家、詩人、鎌倉の鬼門守護職、甲士三郎の隠者生活

52 隠者の聖杯

2018-08-30 15:11:30 | 日記
---露の世に幾百年を生き延びし 古碗の茶にて肝を洗はむ---
私が若い頃、茶の湯で言う「一生一碗」を「一生一つの碗だけを愛用する」と解してしまったのは言葉の罠で、実際には「一つの碗にたどり着くのに一生かかる」だった。
己れに相応しい茶器を探すのは、理想の己れを探す事と同じだ。
これはもうキリストの聖杯探索にも匹敵する難行だろう。
ことに隠者らしい器と思うと難易度が跳ね上がる。
隠者は日々の質素な飲食(おんじき)にも精神美が必要だ。

(古萩 唐人笛茶碗 江戸初期)
上の写真は茶渋の染みが雨漏り模様になった萩茶碗で、使っていると古武士の魂が自分の身中に染み込んで来るようだ。
珍しいリベットのような擂茶(るいざ)が気に入っているのだが、数百年前の物は私の代で壊したりするのも忍び無く毎日は使えない。
一方この十年程で窯の機能やコンピュータ制御が劇的に進歩し、桃山時代にも勝る優れた若手の作品が手頃な価格でネット等にも出て来るようになった。
現代作家物ならアンティークの鑑定知識も要らず、普通の人でも買いやすい。
毎日使う物は使い易さは勿論、飽きの来ない奥深さが必要だ。
映画インディージョーンズの聖杯も簡素な物だった。
私の日常では抹茶より煎茶が主なので、我が聖杯は現代作家の湯呑を探すべきだろう。
人生に荘厳さを加えるような重厚感や存在感まで求めて行けば、その過程で審美眼も自ずと鍛えられてゆく。

長年これでも無いあれも違うと数千点を検分した末に残ったのが下の写真。

(織部湯呑 小割哲也作)
織部は発祥の桃山当時からして前衛であって、この現代作もその出自を確と受け継いでいる。
大衆文化全盛の中で失われがちな武家文化の豪壮さもある。
なにより捻くれ方が隠者に相応しい。
使い込んでもう少し渋みが出て来たら申し分無くなるだろう。
---弦月も手捻り碗も傾ぎ合ふ---

聖杯はただの水でさえ天上の甘露に変え、腸(はらわた)を浄化してくれる。
私は血糖値の呪いで酒は厳禁だが、健康な人の聖杯としては酒器が本道だ。
酒器なら湯呑より質量共に豊富な作品があるので探すのも楽しい。
いずれにしろ良い茶器酒器には、小さくとも日本文化の精粋が詰まっているのだ。
古人達が高めて来た日本の美意識を我々の代で低下させる事の無いように、せめて良き器を使って日々の精神生活を向上させたい。

©️甲士三郎

51 幻視への音楽

2018-08-23 13:50:41 | 日記
キリスト教の祭壇画では天使達が楽器を奏でて神を讃えている。
東洋でも来迎図の奏楽天ほか妙音天、弁財天達が楽器を持っている。
神聖な所に音楽は欠かせない。
または「僕の地獄に音楽は絶えない」(アクエリオン)とも言える。

季節や場所に応じて用意してある各ジャンルのBGMリストの中で、私が散歩でよく聴くのは月並だがやはりバッハになる。
中でも宗教曲は音の結界を張って俗世から脱するには最適だ。
日本では雅楽や密教の声明(しょうみょう)に宗教音楽の萌芽はあったが、残念ながらその後の発展が無かったので、神聖さを求めるなら洋楽しか無い。

定番のクラヴィア平均律を聴きながら森の小径をふらつけば、だんだん離俗の気分になってくるだろう。
ここで大事なのは古人の言う「止観、観想」で、見るのを止めて想う事だ。
森の隅々まで寂光を行き渡らせ枝葉の色形を整えて、空気に清澄さを吹き込んだような景を想い描くと良い。
そのうち幻視の森に入り込めたら、プレリュードからファンタジアに。
もしも詩神の天啓でも降りてきた時には、鳥や蝶達と壮麗なコンチェルトで祝福しよう。
このようにして妙(たえ)なる音楽は、ありふれた木立を聖なる森に変容させる。
---楽の音と共に進みて現(うつつ)無き 常世の森へ小径を開け---

洗練された音楽が教会や宮廷にしか無かった時代には、そこは人々が夢想に浸れる唯一の場所だったろう。
誰もが音楽と共に歩ける現代は、とても幸福な時代だ。

©︎甲士三郎

50 武神達の晩夏

2018-08-16 14:04:56 | 日記
---戦なき武神の山の稲光---
夏の鎌倉は海辺の賑いに比べ、山側の神社仏閣は閑散としている。
その中心にある鶴岡八幡は、源氏の氏神にして言うまでもなく武神である。
しかし武神のくせに敗戦後の進駐軍に遠慮して、最も重要な武運長久のお札を売っていないので、我々鬼門守護職は氏子をやめてしまった。

探神院の目の前には大塔宮護良親王の首塚がある。
征夷大将軍にして天台座主の悲劇の皇子で、やはり武神として祀られていて山本五十六はじめ横須賀海軍の将兵達の信仰が厚かったようだ。
しかしこの大塔宮にも武運長久の護符は無い。

(帝国海軍恩賜の短剣)
探神院に一番縁の深い歌人将軍実朝公だが、祀る社も無く寿福寺に粗末な石の供養塔
があるだけで、ゆかりの大銀杏も愚かな宮司と造園業者が大枝を丸刈りにした数年後に案の定倒れてしまった。
国家太平なのは御慶にたえないが、武神達はこんな扱いでいささか忸怩たる思いではないだろうか。
まあ武神や軍が暇なのは平和で良い事だと思うしかない。

---敗残の思ひの影を長々と 引き摺り歩く亡父の晩夏---
直参旗本だった我が祖先は維新を生き延び父は第二次大戦を生き残ったのだが、武門の晩生は得てしてこんな物だろう。
今の鎌倉はすっかり食べ歩きの町になって武神の護符の需要など皆無だ。
八幡神に縁結びや商売繁盛を願っても御利益は薄いと思うのだが………正月の初詣だけで数十億円の売上があるらしい。
隠者はせめて敗戦の日くらい父祖達の時代を想い、軍書でも読んで過ごそう。

---父に似る西日の中の影男---

©︎甲士三郎

49 中世の森

2018-08-09 13:48:46 | 日記
中世のドイツ フランスあたりは、未開拓な森が広がり野蛮な因習とカトリック的な抑圧に捕らわれて、ローマ帝国滅亡後の千年に及ぶ文明の衰退期を過ごした。
フランク王国では貴族層でさえろくに読み書きが出来なかった時代もある。
中世ヨーロッパの人々は停滞した農耕文化と森の狩猟文化の中間で暮らしていたのだ。
伝統的な隠者のイメージも、ギリシャの哲人やカトリックの修道僧と言うよりケルトのドルイド(賢者)の方が近い気がする。

うちの近くにもちょっとした森があり、よく散歩に行く。
避暑地鎌倉の中でもここは街中より2〜3度は涼しいので、虫除けスプレーさえあれば夏でも私の憩いの地だ。
ケルト文化は文字を持たなかったのでドルイドの言動などは憶測する他ないが、森の賢者と呼ばれていたのだからやはり思索に耽っていたのだろう。
ぼーっと思索に耽るだけならこの隠者も得意だ。
だがそれよりもっと重要な事は、ケルトの森は妖精達の原風景なのだ。
昨今の映画やゲームでも、剣と魔法の中世ファンタジーに妖精は欠かせない存在だ。
妖精の事を東洋では花の精とか樹の精など、ただ精と呼ぶ。
鎌倉の森にだって精に進化する前の蝶や蜻蛉は楽しげに舞っている。
---黒蝶が己れの影へ舞ひ降りる---

下の古織部の絵も、隠者には神秘的な森の中の妖精に見えて来る。
織部釉の偶然の垂れと窯変が、いかにもダークファンタジーの色調だ。

(織部絵皿 江戸時代 探神院蔵)

我が国においても中世鎌倉 室町禅の白衣観音図などを見ると、森の中や泉辺に座している姿が多いのは、屋内より自然の中にいる方がよりスピリチュアルになれる査証だろう。
一転して少し明るい水辺では、蓮の蕾も花の精の揺籃器のようで可愛らしい。
蓮華座の菩薩や天女は、アジア的な妖精とも言えよう。
---浄蓮の蕾の中の薄明り---

フェアリーもピクシーも異教的だ非科学的だと否定され続けたが、二十世紀初頭のケルト文化の再評価もあってしぶとく生き残っている。
シャーロック ホームズを書いたコナン ドイルは英国妖精学会の重鎮であった。
コナン ドイルでなくとも妖精が居ない世界より居る世界の方が楽しい。
豊穣な精神文化とはそう言うものだろう。

©️甲士三郎

48 海辺の叙事詩

2018-08-02 13:49:20 | 日記

(アルキノウスのイコノグラム 紀元前3〜2世紀 探神院蔵)
ホメロスのオデュッセイアに出てくるアルキノウスの庭は、一年中花と果物が絶えない楽園だ。
上の写真は中央がアルキノオスの庭園で、回りを双顔の貴婦人、妖精、薔薇、斧、獅子が囲むミスティカ(神智学)によるイコノグラム。
私が組んだので多少怪しいが、楽園を希求するアーティファクト(聖遺物)である。
鎌倉は水仙が年末に咲く程で冬が短かく、何かしらの花が一年中咲いているところはアルキノウスの楽園に近いが、近年の温暖化の影響で 夏が前後におよそ2週間づつ長くなった分、処暑の方策を増やさないと身が持たなくなった。

夏と言えば海だ。
隠者には湘南ビーチの雰囲気は似合わないと思って敬遠して来たのだが、南仏のジャン コクトーやカリブ海のヘミングウェイのイメージで、ビーチのカフェで読書や原稿書きなら出来るのではないか、と閃いた。
渚で読書ならそれこそオデュッセイアなど地中海の英雄叙事詩がぴったりだ。
長いストーリー自体はあまり重要ではなく、気に入った詩句一節の崇高さ(格好良さ)こそ味わうべきだろう。
ただし日本語の翻訳本は詩文の体をなしていないので、原典の品格を脳内補正して読もう。
BGMは古風で勇壮なヴァン ヘイレンのジャンプあたりが夏向きで良い。
ワーグナーやドイツ的なクラシック音楽は夏の海にはあまり似合わない。
古代の英雄達と共にこんな私にもあった栄光の日々を懐かしみつつ、若い世代の活躍を見守るのが隠者の晩夏にはふさわしい。
---燃え尽きる夕焼(ゆやけ)の赫に身を染めつ 老いの呟く英雄叙事詩---

(夏のビーチは撮影禁止らしく、写真は誰もいない早朝か夕刻に)
スナフキンのような帽子で変装し、浜辺に赴いたのだが………。
隠者の風貌は叙事詩の英雄と言うより、歌舞伎の俊寛のような流人に見える気がする。
---星辰が座に着く夕べ時は満ち 渚に出会ふ猫と咎人---

©︎甲士三郎