鎌倉の隠者

日本画家、詩人、鎌倉の鬼門守護職、甲士三郎の隠者生活

294 褪春の新体詩

2023-04-27 13:44:00 | 日記

青葉冷えの続く今週は数冊の新体詩の古書が届き、この春の終りは1世紀前の新体詩の終焉を想う日々となった。

それまでは詩と言えば漢詩の事だった我が国に、明治中期から純粋な日本の詩形として出て来たのが新体詩だ。

代表作には土井晩翠の「荒城の月」や島崎藤村の「千曲川旅情の歌」などがある。


その頂点を極めたのが今や忘れ去られた大詩人、蒲原有明と薄田泣菫だった。



(有明詩集 初版 蒲原有明)

以前「有明集」を3冊揃えた話をしたが、こちらは持ち歩きに適した彼の全詩集だ。

晩春の花野の中でこの格調高い調べに浸れば、いつしか己れも高雅な詩中の世界へ移転していよう。

有明達が美しい古語を駆使しあまりにも完成された韻律を作ってしまったので、新体詩では後に続く者が出難かったとも言える。


薄田泣菫の名作「白羊宮」も目出度く3冊揃った。



(白羊宮 初版 色違い版と函 薄田泣菫)

「白羊宮」は最初から色違いの二種が出版されていて、今ではグレーの方はかなり入手困難だ。

この中の「望郷の歌」こそは、隠者の知る限り最も美しい夢幻の故園だ。

誰の心にもあるようなまほろばの四季の光景を、誰一人成し得ぬほど美しい詞で歌っている。

隠者はこの詩で気韻生動とはこう言う物かと実感させられた。

象徴主義の詩のような難解さは何処にも無いものの、古語雅語による韻文は並の現代人には気高すぎて理解し難いかも知れない。


こちらも同時代の河井酔茗の新体詩と韻文で、御婦人向けに出された絹張り金字装丁の豪華な詩集。



(玉蟲 初版 河井酔茗)

「玉蟲」は明治の教育制度が行き渡り女性の識字率が急激に高まった時代の、更にはまだ読者層が知識階級から一般大衆に移る前の最高級品だった。

この美麗なる装丁と酔茗詩の流麗なる調べは、自ずと明治の読書人達の美意識の高さを物語っていよう。

その後の大正〜昭和初期は文化の大衆化により口語自由詩が主流となり、品位ある文語定形の新体詩は衰退して行った。

褪春の古詩集に今にも散る寸前の芍薬を取り合わせ、しばし行く春の思索に耽るのが良かろう。


日本には短詩としては和歌俳句の文語定形詩があるが、漢詩西洋詩の長さに匹敵する定形詩としては新体詩が最も適していたと思う。

春の名残にこうした新体詩黄金期の聖遺物を手に取っていると、古来より美しきものみな滅びゆく定めとは知りつつ、美しく気高きものを愛する人々さえ減り行く現代を無念に思う。


©️甲士三郎


293 藤色の暮春

2023-04-20 13:06:00 | 日記

ーーー藤棚の上(へ)は秘めやかに光満ち 友鳥集ふ紫浄土ーーー

それぞれの月を象徴する色が、3月は薄紅なら4月は藤色だろう。


鎌倉の山々は天然林なので山藤も多く自生していて、早朝の散歩道にも山裾から張り出した藤が爽やかに揺れている。



この山藤は他より淡く上品な色調で、土壌によって同種でも多少発色が違うらしい。

まだ薄い若葉色と薄紫の取合せは隠者好みで、品の良い爽やかさを感じる。

藤は風薫る谷戸のあちこちに戦いで暮春晩春の我が暮しには欠かせない彩りだ。


藤の蔓は他の木を枯らすので切ってしまう人もいるが、鎌倉の山は自然に任せて放っておくべきだと思う。

それでも山藤は台風の塩害に弱く、鎌倉では10年に1度は被害に遭う。



こちらの藤は山から写真外の家の庭木にまで這い移っていて、そこのご主人は切らずにそのまま楽しんでいる様子だ。

庭に入った事は無いが、この時期は後ろの山の藤と合わせてさぞ見事な眺めだろうと思う。

鎌倉の山際の家は何処も山を借景にした庭を作れるのが長所だが、近年は戦前からの良い家屋や庭がどんどん壊されて行くのが残念だ。


八幡宮の弁天島の神前には白藤の棚が広がっている。



たまたま通り掛かりに鳩が藤の花を食い散らしているシーンが撮れた。

鳩も藤棚上の中の方だと下からは見えないので、この端の位置で運良くカメラに納められたのだ。

白藤の下には弁財天の小さな朱塗の社があり、紅白の色彩の対比が鮮やかだ。

これが紫の藤だとそれほど良くは見えないだろう。


我が荒庭の藤を活けてコーヒータイムにしよう。



本は土井晩翠の「天地有情」。

紫と黄緑の彩りを壊さぬように、緑釉の花入と茶器を選んだ。

今日を思い返せば山腹から谷戸筋に雪崩れるように咲く山藤は、鎌倉の天と地を繋ぐ美しき鎖のようだ。

土井晩翠は新体詩の詩人の中では漢文調の気宇壮大な叙事詩に良さがある。

また彼の訳によるオディッセイは気韻生動する名訳なのに比べ、戦後の韻律も何も無い口語訳ではホメロスが嘆いていよう。

彼が一編でも鎌倉武士の英雄叙事詩を書いていたら愛唱したのにと思う。


今週末の鎌倉祭ではようやく流鏑馬が復活するらしいが、まだ観客数は制限されるそうだ。

指定伝染病の解除以降は以前のような明るい街に戻ってくれるのだろうか。


©️甲士三郎


292 散歩の小詩集

2023-04-13 13:00:00 | 日記

あの花この花と取材に飛び回った花時も終り、先週末の風雨の後の山々は急速に芽吹きの色を増して来た。

近所の路地にも光が溢れ、物みな輝いて見える時だ。


遅桜とリラが隣り合って散る散歩路で読もうと、小さな古い詩集を持って来た。



(青い小径 初版 竹久夢二)

大正の詩集はみな小型で可愛らしい上に、天金に木版刷りの表紙口絵など豪華な装丁が多く愛着が湧く。

この本はだいぶ傷み汚れていて補修もしたが、私には古陶と同じように時代相応の汚れがある方が美しく思えるのだ。

夢二の初版本は以前から高価でなかなか入手し難かったのが更にこの12年で倍以上に値が上がり、もうこの隠者如きの手には負えないだろう。

竹久夢二の作品はみな詩歌としてより本として一級品なのだ。


晩春の散歩の楽しみは路傍の草の小さな花々だ。

ーーー風光り草上に古書開く時ーーー



(どんたく 初版 竹久夢二)

春野に座してお気に入りの詩集の頁を開けば、ほんの数分でも深い充足感がある。

さらに周囲の光や風に合った音楽があれば至福の時間だ。

写真はこれも夢二の詩画集だが、野に置いてこれほど様になる本も少ないだろう。

惜春の散歩路には大正浪漫の詩集が良く似合う。


そろそろ家に帰って茶菓の時間だ。



(祇園双紙 初版 吉井勇)

ここもついでに夢二装丁の吉井勇の歌集を飾り、昭和初期の古民芸の花器茶器を取り合わせて一服だ。

同じ夢二の表紙で吉井勇の「祇園歌集」は以前紹介したが、この「祇園双紙」も小型で散歩のお供にも良い本だ。

茶菓も珈琲に蓬饅頭の和洋折衷が大正時代の歌集にはふさわしく思える。


今週はおまけで写真をもう1枚、樹々の芽吹が丁度良い色となっている鎌倉宮の杜。



名残の花と種々の芽吹の色が社殿を囲み、瑞々しく調和している。

この麗しき春色の景色はわずか4〜5日しか持たず、その後は葉緑素が増えてきて全てが若葉色から深緑となって行く。

山桜の1週間に芽吹の1週間と続く、我が谷戸の彩りが最も劇的に変化して行く日々を精々心に刻もう。


©️甲士三郎


291 清明の野遊び

2023-04-06 13:03:00 | 日記

節季は清明となり鎌倉は麗らかな陽射しに溢れ、前山から庭に花がはらはらと降り散って来る。

こんな日は久々にお猫様を連れて野遊びに出よう。


花も終りの谷戸の散歩道は、行く先々で春風谷風に花びらが舞っている。



(猫型酒注 明治頃 古丹波杯 江戸時代 煎茶盆 明治時代)

麗らなる桜の根元の花屑の上で杯と戯れるようなお猫様だ。

上げた手の先から酒が出る仕掛になっている。

宿痾により酒の飲めない隠者も、お猫様のお酌でひと舐めだけ御相伴。

猫の眼と同じ高さで見れば、一面の花屑世界の夢幻に浸れる。


路傍には小さな花々が咲き、ちょっとした空地でも春の陽射しを堪能できる。



この空地の蒲公英は2週間ほど前に咲き出した花ごと草刈りされてしまったのが、その後も逞しく根を張ってまた花を咲かせたのは驚きだ。

甦った緑と黄の瑞々しさは、この春の痛切な想いとして記憶に残るだろう。

本はラフカディオハーン(小泉八雲)の「日本の面影」の戦前翻訳版。

彼が日本に来て間もなく鎌倉を訪れた時の紀行文は詩情に満ちて、日本人よりずっと深く日本の美を理解した名文だ。

英語が苦手な隠者でも、原書の初版が欲しくなる。


家に帰って誓子の落花の句でも眺めながら一服しよう。



(直筆句軸 山口誓子 益子急須湯呑 昭和前期)

「遅れ咲きいまの落花に加はらず」山口誓子

誓子は機関車や鉄錆などの硬質なモチーフで評価を得たが、私はこの句のような普通の季題の方が好みだ。

最新流行の物ほど古臭くなるのも早い。

穏やかな句風の軸と地味な色合いの机辺に、干菓子の春色が鮮やかに映える。


ーーー暗雲の去り行く風や花は葉にーーー

街ではマスクの人も減りつつあり、山々は芽吹の色に潤って来た。

今月からは少しでも明るい世に戻れるように、隠者もせめて明るめの衣服でも着るようにしたい。


©️甲士三郎