鎌倉の隠者

日本画家、詩人、鎌倉の鬼門守護職、甲士三郎の隠者生活

126 殿様の湯呑

2020-01-30 14:37:00 | 日記
抹茶碗では唐物国焼き、志野織部、一楽ニ萩三唐津ほか、どれが良いかと大昔から百家争鳴の状況だ。
一方で煎茶番茶では今あるような湯呑や急須が造られたのは19世紀以降の上に、抹茶より格下の扱いなのであまり論評もされて来なかった。
だが日々何度も使って精神の安寧をもたらしてくれる湯呑こそ、最上の物を選ぶべきだろう。
そこで今回は隠者が父祖達の使って来た茶碗湯呑の変遷と、古今東西の各種湯呑の選定に苦慮した話しをしよう。

(左から天目茶碗 宋時代 古伊万里茶碗 江戸時代 九谷茶碗 明治時代)
江戸時代の直参旗本の格式は外様大名と同格で我が祖先は「殿」と呼ばれる身分だったので、上の写真左の偉そうな蒔絵家紋入りの天目台と唐物茶碗を使っていた。
その殿様が江戸後期は幕府の困窮で三十俵二人扶持に落ちぶれ、寺子屋の師匠で糊口を凌いでいたようだ。
その後の幕末明治期は写真中央のようにだいぶ砕けた感じのセットで、煎茶番茶を飲んでいた。
さらに下って大正昭和では普通の茶托になり、戦後の我が父の代では様式を失い茶托さえも使わなくなった。
武士の没落、我家の没落、ひいては伝統文化の没落である。

そして現代ではやっと作家達が桃山茶陶を凌ぐ湯呑を作れるようになり、煎茶番茶でも過去を上回る茶器の選定と典礼の再構築が可能になった訳だ。

(左から鼠志野 絵唐津 織部 黄瀬戸 現代作家物)
煎茶道の茶器は玉露の一滴を舐めるような小ささで、現代の日常生活には適さない。
現代生活で使い易いのは、まず器形は縦長の筒形で抹茶用の筒形の茶碗を片手で持てるようにもう少し細くした物が良いだろう。
そして磁器よりも掌(たなごころ)に包んで熱くない陶器製が私の好みだ。
急須との取り合せも忘れずに考慮したい。
毎日これを手に持って思索の世界に旅立つのだから、大事な旅のお供とも言える。

実際に選べるのは19世紀以降の物なので自ずと作家物が多くなるが、昭和あたりの陶芸家は芸術志向が強く湯呑や日常の食器類を馬鹿にしていた。
よってどの家庭でも湯呑は観光土産の夫婦茶碗あたりで文字通りお茶を濁していたのだ。
今から見れば戦後昭和期は大衆消費文化と商業主義に押されてどの芸術分野でも収穫は乏しく、国家レベルで最も金を注ぎ込んだ建築物等を見ても、未来に遺せるような物は皆無と言っても良いだろう。
平成後期頃からネットの発達などで美術団体や流通業者の縛りが効かなくなり、個々の作家の頑張り次第で良い作品が買い易い価格で消費者に届くようになって来た訳だ。

(見立ての古志野湯呑と菓子皿 古織部急須 桃山〜江戸時代)
ネット上のショップやオークションでは全国の作家や工房の豊富な品揃えを比較検討する事が出来て、毎日大展覧会が開かれているような楽しさがある。
そこでこの隠者が悩みまくって買い込んで、いろいろ使ってみた結果………。
作家達が良い物を作ってくれた中で邪道だとは思うが、結局は桃山〜江戸時代の向付と酒注を見立てで煎茶用に転用している。
経年の重厚感や深みがこの年寄りには何より捨て難く、遠い父祖の血が甦り古格こそ最重視せよと宣うのでどうか御勘怒あれ。

©️甲士三郎

125 神仙境の草庵

2020-01-23 14:30:00 | 日記
最近日本でもスローライフ志向の人が増えていると聞く。
そのスローライフの究極は東洋古代からの見果てぬ夢、神仙境の暮しだろう。
隠者は長年その研究のために、身命を賭して来たと言っても良い。
ここは私の出番だ。
早速手持の古器や古画を過去への扉として、仙境夢幻界へ移転してみよう。

(古九谷色絵徳利 古九谷色絵盃 江戸時代)
この徳利と盃に描かれている景こそ古来知識人達の理想郷にして、この隠者の夢見てやまぬ終の住処でもある。
清澄な山中の花咲き鳥が歌う楽園に簡素な草庵を建てて、質素だが選び抜かれた美しい家具什器類に囲まれ、俗世を離れて画技詩文三昧に暮すのだ。
更にはこの古九谷の徳利盃などは明治大正の文人茶人垂涎の神器だったらしく、こんな神仙境で雅友と交わす一献は正に羽化登仙の悦楽となっただろう。
山水楽土に花鳥浄土、これに加えて電気とインターネットさえ有れば無上の我が楽園だ。
盃の画中橋上の杣人は夢幻界におけるこの隠者の姿なのだが、諸賢もこの幽境に入り込んで暮らす自分を想像してみればこの画の魅力がわかると思う。

(賢人山居図 狩野派 江戸時代 探神院蔵)
この屏風も賢人達の理想の棲家を描いているが、その類の絵の代表は蕪村と池大雅の共作の国宝十便十宜図だろう。
彼等の描いた村や庵は周りの田畑や木々山々まで含めてただの風景画ではなく、当時の知識人達の胸中にある聖なる楽園の景なのだ。
蕪村の号は、陶淵明が都の生活のすべてを投げ擲って故郷の廬山の麓に帰る時の詩「帰りなんいざ、田園まさに蕪れんとす」に始まる『帰去来辞』に因んでいて、「蕪れんとす」は「荒れんとす」の意である。
なので蕪(かぶ)の村では無く、戦乱に蕪(荒)れた村なのだ。
ただしそんな格別の思いや脱俗高邁な精神が無ければ、古人達が心底から希求した理想郷の暮しも必竟ただの田夫の暮しと堕す。
---厭離穢土 欣求浄土---(戦国徳川の軍旗)

(永福寺遺跡の池 左奥の山裾の僧房跡に我が探神院がある)
我が探神院は鎌倉の山裾にあり脇を沢水が流れ、深山幽谷とまでは行かないが気分は半自然の中の暮しで山河草木 花鳥虫魚など、詩題画題にも事欠かない。
加えて永福寺跡は龍穴の地にして天霊地気の残滓くらいはあるし、写真右奥の大塔宮護良親王の首塚山は今もダークファンタジーだ。
山蔭で電波の受信だけは弱くケーブル経由のWIFIしか使えないが、それは電話嫌いの隠者には返って好都合なのだ。
欲を言えばもっと幽邃な、例えば隠国(こもりく)の初瀬吉野あたりで深山(みやま)の桜と紅葉に囲まれた悠久の歴………。
つまりは一年でも良いから、あの吉野の西行庵を私に貸してもらえないだろうか。

©️甲士三郎

124 早過ぎる初花

2020-01-16 13:52:00 | 日記

---寒庵に遠山越しの陽が届く---
例年より十日以上早く、もう鎌倉宮の緋寒桜(河津桜)が咲いている。
いつも鎌倉で一番早い荏柄天神社の寒紅梅より桜が先なのは始めてだ。
この初花に目白や鶯が来るのを待つのが、今週の散歩の楽しみとなった。

残念ながらこの写真はシャッタースピードを上げるのを忘れて被写体ブレだ。
せっかく番いの目白が揃ってフレームインしたチャンスがこのザマだ。
さらにAFもどこに合わせたのか怪しい。
もっと腕を磨けば良いだけだが年齢を考えると暗澹たるものがあり、最新機種に搭載された動物の瞳を自動認識してくれるAFが欲しくなる。
2月末に横浜であるCP +(カメラショウ)に行ってみたいが、また物欲を制御出来ずに手痛い出費となるのだろうか。

辛夷の花芽もこんなに膨らんで、春色の兆す天光に輝いている。
この分では今月中にも咲きそうな気配だ。

四季節季は順調に巡ってこそ喜べるが、早過ぎる春は不吉なもので御祓が必要かも知れない。
木花咲耶姫もフローラも決して喜んではいない筈だ。
桃山時代の四時花鳥図は四季の花が同時に咲いて絶えない浄土の景と言うが、現世(うつしよ)が実際にそうなると時間の静止したような世界で嫌気がさす。

まだ晩秋の黄葉の残る我が荒庭でも、本来4月に咲く椿がぽつぽつ咲いてしまって驚いた。
こうなると迎春を寿ぐ(ことほぐ)より、地球温暖化を憂うべきだろう。
よって反自然の物質主義への戒めとして、こんな祭壇を組んでみた。

秋の紅葉の小枝と春の椿が同時にある異常さだ。
これ以上の気候変動は隠者の怒りに触れて、いつか逆さ十字架の刑が炸裂するだろう。
---楽園の時は狂ひて花鳥らの 春と秋とが分かてぬ時代---

©️甲士三郎

123 耐寒の蕾

2020-01-09 13:56:00 | 日記
---古壺開口待咲蕾---

(寛文美人画 江戸初期 絵唐津徳利と蒟醤香合 江戸時代)
古美術商の昔からのセールストークに「玉椿が見えて来るようだ。」と言うのがある。
一見地味な古器を客に薦める時の決め台詞で、徳利などに寒椿の蕾を挿した情景を想像してみろと言う意味だ。
こう言う幻視は我が得意技の上に可愛らしい椿の蕾は殊に好きな花材なので、古びて汚れた徳利が一気に輝いて見えてつい買ってしまう。

徳利の形は椿の一花三葉にぴったり合って、誰にでもバランスが取り易い。
耐寒の象徴として開花を待つ蕾を宝玉に見立てて活けるのだが、その玉椿に最も合うのが古い地味な色の陶器の徳利だ。
江戸時代の備前唐津美濃あたりの徳利との取り合せは日本の美意識の頂点と言っても良い。
古今の人々の待春の想いを、最も簡潔な姿で象徴していると思う。

(絵唐津徳利 江戸時代)
最近ではワインの影響か酒を漏斗で徳利に入れるのを面倒がって、瓶から直接酒盃に注ぐ人が多くなった。
そこであまり売れなくなった徳利を花入に使ってもらおうと、徳利ではなく一輪挿しと呼ぶ店も増えている。

もう一枚、下の写真は唐物の徳利に山茶花の蕾と咲きかけの一枝。

(磁州窯徳利 宋時代)
寒中に貴重な真紅の花は、炭の火種のように見えて格別の色味だ。
己が胸中にもこんな美しい火種を絶やさずにいたい。

今日の鎌倉は春のように暖かくて、庭の寒椿が一斉に咲いた。
我が荒庭には寒椿春椿合わせて10種ほどあって1〜4月まで咲き継ぎ、その蜜を吸いに小鳥達も集まってくる。

庭仕事の合間に椿の下でガーデンティーにしよう。
山茶花もまだ咲いていて彩りも賑やかだ。
冬の光は低く斜めに差込み、庭の一隅を穏やかに照らす。
例によって花精の分のカップも用意して、まだ遠い春を共に待つのだ。

©️甲士三郎

122 太陽神の復活

2020-01-02 13:23:00 | 日記
正月の鎌倉は凄まじい混雑で、それを嫌って地元の人間は家から出ない者も多い。
我家の正月は旧暦でやるのでこの時期は静かに引き籠っているが、その代わりに和洋折衷宣言で花祭 夏至祭 収穫祭とやって来た洋風儀式の最後として、太陽神復活の冬至祭とニューイヤーの宴をごちゃ混ぜでやる事にした。
「新春、迎春」の儀は自然の季感感に従って旧暦立春に祝うべきだが、さすがの隠者もカレンダー上の「新年」だけは世間に合わせざるを得ない。

冬至祭を調べてみると古代ギリシャローマにもあったようだが、だんだんクリスマスや新年祭に吸収されて行き今も冬至祭だけ独立して行なうのは北欧の一部だけらしい。
この日を境に昼が長くなって行くので、太陽神の復活として祝う訳だ。

(ヘリオスのコイン ギリシャ 紀元前2〜3世紀)
太陽神と言えばアポロン(ローマ名はアポロ)だが隠者に取ってのアポロンは芸術神としての意味合いが強く、これまで当稿でも詩神として度々登場している。
元々はヘリオスが正当な太陽神でアポロンは光明の神だったのが、美男で人気者のアポロンが太陽神の地位まで乗っ取ってしまったようだ。
そのせいかこの古代銀貨のヘリオスも何となく憂い顔に見えるので、ちゃんとお祀りしてあげよう。

仏教(密教)における太陽神は大日如来だ。
元を正せば仏教もまた渡来の多神教なので、ギリシャ神と一緒にしても神罰は当たらないだろう。

(大日如来図 室町時代)
室町時代の仏画に合わせ、当時の婆娑羅大名達に流行っていた床の間飾りの三具足(みつぐそく)を使ってみた。
三具足とは燭台、香炉、花入のセットで古銅の大振りの物が多く、兵装に例えた所が婆娑羅らしくて面白い。
これは珍しく黄瀬戸製の明治頃の物で、銅製よりも明るく見えるので祝典にはこの方がふさわしく思う。
こういった飾りをどれにしようか考えるのも、小さな聖域の創出と思えばやり甲斐がある。

おまけの写真は近所の鎌倉宮の新年祭。
---繰返し光と影を翻へし 春を呼ばふや巫女舞の袖---

初日さす拝殿の巫女舞を特等席で見られた。
動画撮影役も巫女さんなのが何とも今様だ。
初詣に行った訳ではなくコンビニに行く途中に見かけただけであるが、日本の四季の折々にこんな美しい儀式がある事を喜ぼう。

©️甲士三郎