鎌倉の隠者

日本画家、詩人、鎌倉の鬼門守護職、甲士三郎の隠者生活

117 時雨の吟行

2019-11-28 14:48:00 | 日記

今週は鎌倉も雨で冷え込む日が多かった。
時雨と言うのは元々京都近辺の山沿い特有の小一時間ほどぱらつく冬の雨の事だが、鎌倉も似たように山沿いだけ小雨が降る事がある。
時雨に濡れた葉はしっとりとして彩度が増すので、かえって仄かに明るんで見える。


今回は詩や句歌をやらぬ人でも出来るように、ちょっと気の利いたメモ風の吟行にしてみよう。
雨中の散歩こそ新たな発見に恵まれる事も多い。
---雨に濡れて枯葉の色が甦るーーー
メモなので、出来の良し悪しは気にしなくとも良いだろう。

近所の鎌倉宮の紅葉も台風の塩害で茶色く縮れていたのが時雨に濡れてやや赤みが戻り、通常の紅葉の色より重厚な赤に見えている。


---天泣の紅葉の重き赤冷たき赤---
---冬の雨 もう何も願う事無き社ーーー

出来は気にしないと言いつつあまりの惨状なので、ここは一つ旧作で誤魔化そう。
---濡れそぼつ鬼より赤き紅葉かな---

早くも薄暗くなって来て、山門の庇で雨宿りしつつメモの整理。


---服は濡れても画帳は濡らせぬ寒雨ーーー
隠者は詩句歌はタブレットを使うが、絵は今もアナログの画帳と鉛筆かペンだ。
紙が湿ってしまうとインクは滲み鉛筆の乗りも悪くなる。

当期路傍に見られる花は乏しく、僅かに山茶花と石蕗が独歩の慰めとなる。
石蕗の花は地味であまり画題にもならないが、この時期の暗鬱な天候でも灯るように咲くのが古人達に愛されて来た所以だろう。
ーーー訪れる者なくとも 石蕗咲けば古家も少し明るむーーー

枯れ蔦の這う窓に明かりが灯る景は、古い映画の1シーンのように人生を感じさせてくれる。
蔦は楓と違って綺麗に色付いた頃より、枯れかけた時の方が趣き深い。


ーーー枯れ蔦の窓辺に座り晩生に 読むべき本を溜め込んでおけーーー

長年生きて来ると綺麗なだけ楽しいだけでは満足出来ず、より深く味わえる物を求めるようになる。
今日は大した作品は出来なくとも、陰鬱な初冬の感興は十分に味わえたので満足だ。

©️甲士三郎

116 離俗の休日

2019-11-21 14:14:34 | 日記
休日の朝は皆それぞれの過ごし方があると思うが、遅めの朝食後に珈琲やお茶を淹れ好きな音楽を聴きながらくつろぐ人も多いだろう。
まあ隠者や世捨人は毎日が休日のような物だが、そんな日の午前もまた私は例によってぼーっと思索瞑想に耽っている。


(茶器 Michikazu Sakai作)
瞑想に浸るコツは禅の只管打坐に近く、思考に方向性を持たせずに混沌の海をふらふら漂うような感じが良い。
有意義な思考だとか修行になるとか思うのは邪念で、純粋にただぼーっと小春日の至福の時間を味わうのが上等だ。
その場をより厳かな空間にしたければ、BGMにキース・ジャレットのクラヴィア平均律のブック2を推奨しよう。
あのタッチの天才が敢えて強弱を付けられないチェンバロで坦々とバッハを弾くのは、毎日同じ祈りを数十年間も捧げ続ける修道僧のような静謐さを感じさせる。
まさに清浄安息の音楽で、世俗を遮断した夢幻界にふさわしい。
朝の光と茶の温もりと妙(たえ)なる調べの空間は、誰にでも手軽に創り出せる小さな楽園だ。

そんな空間での書見や著述も良いだろう。
文芸好きなら昔の作家の直筆の書などを探して飾ると良い。
詩歌人なら歌仙図の一つでも壁に掛ければ、即自分も歌仙達の仲間に入った気分になれる。

(歌仙図 待賢門院堀川 狩野派 江戸初期)

以前にも自分だけの離俗の結界となる小祭壇建立の話をしたが、俗事に追われる中で失われた魂の聖性を少しでも取り戻す為には、自分なりのアーティファクト(聖遺物)を祀り聖域を創る事から始めると馴染み易い。
参考例に我が鎌倉武者の祖である朝比奈三郎兵庫の古画を祀った所を見てもらおう。

(朝比奈兵庫図 土佐派 桃山時代 探神院蔵)

まずは壁際に文机や小箪笥で置き床(簡易の床の間)を設える。
洋間ならテーブルや棚に西欧風の小祭壇でも良い。
そこに自分なりの御本尊かアーティファクトを安置して、花や燭香また音曲などで荘厳する。
供物の茶菓酒肴を共に楽しみ、心を鎮め脱俗の聖域にひたる。
要は己れだけの精神領域をいかに建立するかだ。
こんな感じならお手軽で、一日に十分間でも離俗の時間と空間を確保できる。

その人なりの精神の拠所となる御本尊やアーティファクトを探し求めるのは、己が魂の欠落を埋めるが如く人生の目的の一つとなる。
そして休日の夜は夜で、そんな神宿る品を求めてネットオークションを物色するのも楽しいものだ。

©️甲士三郎

115 枯野の浄光

2019-11-14 13:46:35 | 日記
9月10月と雨や台風が多く花の咲き加減も良くなかったのが、11月は我が楽園にもようやく陽光が戻ってきた。
枯草に陽が当たった初冬の野には、乾いた明るさがある。
前に室町時代の枯淡の美意識の話をしたが、冷え枯れた野にこそ一筋の陽射しの恩恵は大きい。
この浄光にふさわしいBGMは荘厳極まるフォーレのレクイエム以外は無いだろう。


ひと昔に夢幻界の探索で重宝したのはクラシックカメラの上から覗くファインダーで、俗世を遮断できる暗枠と深淵だけにフォーカス出来るアーティファクトだ。
スマホの液晶では肉眼の視野に己れの手や物質界の不要な諸々が常に見えているので夢幻界に入り難く、私は今でもまともなファインダーのあるカメラしか使えない。
現実世界から小さな奇跡だけを切り離し、アウトフォーカスの混沌の中からゆっくりピントが合い光像が浮かび上がって来る、その過程が悦楽なのであって出来上がった作品はさほど重要ではない。
隠者は日々こんな感じで身辺の楽園の情景を楽しんでいる。


私も今のように散歩がてら気ままに詩画や写真を楽しめるようになるまで、結構時間がかかった。
未熟な頃は良い作品を作って社会に貢献したい、その為に作家が苦しむのは当たり前だと思っていたのだ。
昭和の教育は「全て世の為人の為」滅私奉公の精神が日本中に行き渡り、誤った武士道解釈から出た「戦死こそ武士の誉れ」「企業戦士」が常識だった。
しかし煎じ詰めれば「世の為人の為」も、全人類の共通の願いは楽園の建立だろう。
その為には隗より始めよで、まずは己れの楽園を創り出さなくてどうする。
まして芸術家はその手本を示すのが本来の使命だろう。
それを教えてくれたのが「森の生活」のヘンリー ソローやターシャ テューダーなどの暮し方だった。
そのお陰で私のそれまでの苦行は、己が楽園を具現化する為の術(すべ)に変わった。


この平凡な空地で上の二枚の写真を撮っている。
残念ながらほとんどの人はここを通り過ぎるだけで、恵みの浄光にも万象の神意にも興味がないのは不幸だ。
楽園は凡庸な眼には決して見えず強く想い描かないと具現化しないのだが、その一方で求める人には幾らでも小さな奇跡が見つかる所だ。
SNSのコメントや写真を見ていると、こういった事には我々の世代より今の若い人達の方が数段鋭敏なようで頼もしい。

©️甲士三郎

114 婆娑羅の茶

2019-11-07 14:41:01 | 日記
我家の先祖書を見ると佐々木源氏の流れとなっているが、直系は婆娑羅大名で有名な佐々木道誉の後に途絶えていて、江戸初期の徳川家臣団の箔付に系図買いされた物だと思う。
道誉ら婆娑羅一党は闘茶 連歌 立花に歌舞音曲などの宴を連日催していたので、私の喫茶に句歌、投入花などの遊興も婆娑羅の血筋と志を一応形式的には継承している訳だ。
まあ当時の闘茶連歌の宴は到底行儀が良いとは言えないが、当代一流の文武に秀でた武将達が揃っていたのだから、知性品性はそれほど低くはなかった筈だ。
当時は古来の王朝公家文化が形骸化し低迷していて、新しい武家文化を創り出すには婆娑羅的な自由さや破格の力技が必要だったのだろう。
そういった婆娑羅武将達の気風が後に形となり具現化したのが織部の沓茶碗だ。


(鳴海織部沓茶碗 桃山時代)
白い波模様と歪んだ口縁が歯を剥き出しに呵々大笑しているような、豪快な鳴海織部の抹茶碗だ。
赤と緑と白の色彩対比が個性的な絵と形に相まって、強い視覚効果をあげている。
桃山織部の沓茶碗は轆轤でちゃんと円形に作った物を押したり引っ張ったりしてわざわざ歪ませ、古い時代の侘び寂びの概念に生き生きとした躍動感を付与し簡略な絵付模様によってコミカルな楽しさを加えた。
この破調の美こそ婆娑羅茶の最終兵器であり、捻くれ者の隠者にはこの手の歪んだ沓茶碗が良く似合うと自負している。


(我が書院の茶席)
鎌倉〜室町時代の茶礼は板間に敷いた円座に胡座の武家礼法で行われていて、畳に正座の作法は幕末〜明治の末流茶道からだ。
婆娑羅茶は闘茶の賭事と大宴会のイメージが強いが普段はもう少し大人しい書院の茶で、千利休以前のこの書院茶こそ我が手本とすべき原形だろう。
貴族文化が寝殿造りなら武家文化は書院造りで日々の暮しを楽しんだのだ。
それらを踏まえて我が隠者流の喫茶は脇息 座布団(時に座椅子)に胡座手前で、更には抹茶ラテかカフェラテならどんなに手前勝手だろうが誰も文句は無いだろう。
また書院の茶席はそのまま書見執筆にも使えるのが茶室より便利な所だ。


(野点用の黒織部沓茶碗 江戸時代)
古織部には珍しい小服の旅茶碗で普段はこの黒織部が最も使用頻度が高く、夏場はゼロコーラにまで使用している。
儀式には両手持ちの茶碗が威厳があって良いが、現代の日常生活には片手で持てる小振りの茶碗の方が何かと重宝ではある。

晩秋の枯野での一服は、戦国武将達の陣営での生死一如の茶事を思い起こさせる。
戦乱の時代の陶片に乗せた饅頭は、糖類禁止の私の口には生涯入らない貴菓である。

©️甲士三郎