鎌倉の隠者

日本画家、詩人、鎌倉の鬼門守護職、甲士三郎の隠者生活

60 隠者の夜長

2018-10-25 15:12:54 | 日記
---頼り無き灯火を掲げ長き夜の 野に踏み出すは野人の証---

小さなランタンを買ったので、夜長の山野をぶらつきに出てみた。
市塵を離れた森の中の孤独な灯火は幻想を誘い、火を眺めているだけでも詩情がある。
アメリカの哲学者ヘンリー ソローの「森の生活」等を読むと、欧米では田園や森の生活に古の賢者以来の伝統哲学の重さがある。
またターシャ テューダーのガーデンは古き良きアメリカの田園生活の伝統を体現しているから深みがある。
日本では隠遁哲学はあるがネイチャーライフの哲学は根付いていないので、田舎暮しもアウトドア生活もレジャーレベルの軽さが付き纏ってしまう。
そこで我々も古き良き時代の世捨人の暮し、小倉山荘や西行庵などの山家の精神生活に範を求めるべきだろう。
古来多くの先哲達も山に籠った事を見れば、アウトドアライフのワイルドさと思索の深さの双方があって初めて強靭な精神が育つのだと思う。

(十三夜の薄)
既存の宗教哲学が行き詰まってしまった現代日本では、それに代わって生活の芯となる思想精神がないと人生に深み厚みが出ないのだが、その実践的な方法論が都会暮しではなかなか見つからないのだ。
では具体的にどうすれば良いのか。
まずは古人のように蠟燭の灯で書画を飾る、木製の古い文机で思索に耽る、そして月に一〜二度は季節の花を買って活けてみよう。
あるいは山でも都会でも等しく輝く月を眺めるのも良いだろう。
江戸時代の山水画軸には当時の文人達が夢見た、山中の理想の草庵暮しを描いた物が多くある。
そんな絵を飾ってイメージを膨らませたりしながら、己れの部屋が吉野山の西行庵になったつもりで楽しめば良いと思う。
この辺なら街中のコンクリート生活でもすぐに出来る。
年に何度か大自然を訪れるより、毎日の生活の中に小さな自然を取り入れる方が断然良い。

©️甲士三郎

59 隠者の収穫祭

2018-10-18 14:36:41 | 日記

(秋の供物 如意輪観音図 桃山時代 探神院蔵)
俗世のハロウィンとは全く関係無く、毎年我家の庭に実った物を神仏に供えて隠者流の収穫祭をやっている。
荒庭には写真の蜜柑、栗、団栗の他に柿や零余子なども雑多に実っている。
昔の郷士の家では凶作や戦乱に備えて食用になる庭木を大事にしてきた名残だ。
以前お見せした衣通姫や三美神、聖獣達にもお供えしている。
あまり御利益は望めない我家の神仏達だが、季節の行事として一緒に楽しめれば良いだろう。

(収穫図屏風 狩野派 江戸時代 探神院蔵)
この屏風は昔の大名達が領地の豊作を祝って描かせていた物の一つだ。
直参旗本は一応大名と同格を与えられていたので、毎年秋にはこの絵を飾っている。
秋の村祭りに傀儡師(くぐつし。人形芝居の事)や猿曳も呼んで領民を労っている様子が生き生きと描かれている。
こんな田園に暮らしたいものだ。

(上図傀儡部分)
右方のちょっと良い羽織と頭巾の男が庄屋か領主だと思われる。
子供達も元気に育っている。
さて私の今年を真面目に考えると、一番の収穫はこんなブログを訪れてくださる読者諸賢の多さだろう。
その感謝と共に諸賢の御多幸を心から祈念して、今夜は祝歌(ほぎうた)を歌おう。
本来和歌や俳句も吟詠する物、正に歌う物だったのに活字文化に毒されて今や誰も歌わない。
隠者としては幕末の俳人井月のように、収穫の祝歌くらい任せて欲しいのだ。
ただ鎌倉市の馬鹿げた条例では、屋外で許可なく歌ったり踊ったりしてはいけないらしい。
………で、結局一人カラオケで発散するしかない。
曲はボズ スキャッグスの名曲「We're All Alone 」
みんな淋しいんだ!

©︎甲士三郎

58 季感の深化

2018-10-11 14:27:59 | 日記
散歩や街をうろつく時に何を感じ何を楽しむのか人それぞれとは思うが、ただ運動の為だけと言う人はもう少し眼と心を動かす方が楽しみが深まるだろう。
要は身辺で起こっている小さな奇跡にいかに気付き感動できるかで、日々の幸福度が違ってくるのだ。
特に歳を取って物事にわくわくドキドキする事も少なくなれば、残生は衣食満ち足りた緩慢な死となりかねない。
中高年になってからでも、身の回りの物事に対する感受性や感応力は強化できる。
秋の夜長にはそんな思索に耽ってみよう。

---秋の灯を狭め陰らせ窓に這ふ 枯蔦模様富家を縛りて---
現代の都会暮しでは日本の伝統的な季節感は薄いが、自然や季節の感興は老若男女の差なく誰にも味わえ決して古びないものだ。
例えば季語の「秋の灯」は都市部でも十分味わい得る季節感だ。
肌寒くなって街や人家の灯りが暖かそうに見える事を言うが、そう言われても何も感じられない人もいるかも知れない。
そんな人はまず自分の淋しさをじっと受け止めてから周囲の家々の灯りを見渡せば、それぞれの家族の幸不幸までも感受できるだろう。
花鳥風月も認識する心の深さ次第で、千変万化する。

---秋の灯の途切れし闇に開く門---
若い優秀な詩人歌人達も歳と共に詩嚢がすり減ってくるのは不可避で、感応力を深化させないとやがて自己模倣の劣化スパイラルに陥る。
「芸術に完成は無い。いかに大きく未完であるかだ。」とは我が師奥村土牛の言葉だが、届きそうで届かない高みが見えていないと稚拙な未完に過ぎない。
私には日々の暮しの中での思索や感興を高め深めるしか手は無いだろう。

いつもながら句歌の出来は不言不語(いわずかたらず)、勝敗は兵家の常である。

©︎甲士三郎

57 廃都の実り

2018-10-04 14:01:21 | 日記
台風後の秋麗の日、庭の蛾眉鳥も無事な姿を見せてくれた。
鳴き合わせの本場中国でも讃美されるように、蛾眉鳥の歌声は別格のうまさだ。
我が家に通う蛾眉鳥は数羽いて、それぞれ鳴き方が違う。
その一羽が晩夏には法師蝉の鳴き真似を覚えたのには感心した。
十月になり草の実や木の実が熟れてきて、他の小鳥達も収穫に勤しんでいる。

毎日庭の枝垂桜の天辺に来て鳴く蛾眉鳥。

秋の柔らかな陽射しに物の固有色と陰影が調和してくると、野外のスケッチやカメラ取材の意欲も出てくる。
私は日本画家なので陰影は重視していないが(前出、影無き世界)、写真方面では秋陽の描く陰影は好みだ。
元より隠者には春夏より秋冬の衰え行く光が似合うはずなのだ。

黄金色の秋陽が当るだけで、ただの空地にも世界の豊穣さが感じられる。
零れた草の実も鳥達の食餌になる。

一転して朽ちた石垣に這う野葡萄の写真は、前回話した新型カメラの42メガピクセルの画像だ。
若返って眼が再覚醒したような解像度と深い階調により打捨てられた古都の風情が出せたと思うが、ここのブログの写真は1メガが規定限度なので読者諸賢には1/42しか伝わらないのが残念。

止まる足掛りが無いためか、鳥にも食べられずに残っている。

調子に乗ってもう一枚、廃屋と隠者の写真。
この場面に木の実を啄ばむ鳥達の声を加えて見てもらえば、秋の廃都をうろつく隠者の感興が想像できるだろう。

こういった日々こそ私にとって人生の実りなのだが、一般的にはなかなか理解されない。
---朽ちてゆく物に木の実が当る音---

©️甲士三郎