鎌倉の隠者

日本画家、詩人、鎌倉の鬼門守護職、甲士三郎の隠者生活

104 隠者的な硝子

2019-08-29 14:56:51 | 日記

(ピューターマグカップ イギリス 19〜20世紀初頭)

気候変動で10月初頭までは暑い日が続き、水分補給にも冷たい飲み物が欠かせない。
この永遠に終らぬような晩夏の光の中で、透明な飲料用なら涼しげな硝子器で良い物が沢山ある。
しかしアイスコーヒーやアイスティーにミルクを入れると当然濁るので、硝子の一番の長所である透明感を阻害してしまう。
かと言って陶磁器ではやや清涼感に欠ける。
そんな訳で特にアイスコーヒーには私も長年色々な器を試して来たが、ついにこの夏に長年の葛藤に終止符を打つカップを入手した。
不透明硝子(ミルクガラス)のマグだ。
透明度が売りの物をわざわざ不透明にした所が、ひねくれ者の隠者好み。


(ファイアーキング キンバリー 1960年前後)
最近世界中で評価が急上昇しているアメリカン ミッドセンチュリー物の雄、ファイアーキングを代表するキンバリーマグが五色揃った。
アメリカ的原色のけばけばしさが、不透明ミルクガラスの効用でパステルトーンになって品良く調和している。
一点だけ欲を言えば口当りが東洋陶磁器に比べ雑なところで、あと1mmで良いから端反りに直したい。
この他に最も人気があるジェダイ色(瑪瑙色)があるが、私の所だと古青磁の雨過天晴色との勝負になって流石に勝てない。


(オーロラガラス各種 1960年前後)
数あるファイアーキングの中の最貴種は、この虹色に輝くオーロラガラスのカップだろう。
ファイアーキング オーロラは言うなればノーブルかつポップなデザインで、洋の東西を問わずどの飲料にも合わせられるオールマイティーさがある。

ところが不透明硝子器も使い慣れてくると、アイスミルクティーには最適だがアイスミルクコーヒーにはもう少し重厚感と言うか強者の風格と言うか、欲深くも荒ぶる魂が不満を騒ぎ立てるのだ。
隠者は桃山茶陶の歪みとか吹荒ぶ釉の雄渾さにすっかり毒されているので、どんなに綺麗な物でも綺麗なだけでは満足出来ない。
で、荒々しい風格なら冒頭の写真の古色を纏うピューターマグだろう。
へこみ傷付き古びた錆色の姿が、日本の桃山茶陶に通ずる美だ。
陶磁器よりは涼しげで硝子器より重厚なのでアイスコーヒーに限ってはこれがベストチョイスにも思えて来て、結局終らぬ夏のように器種選定もまだまだ続くようだ。

©️甲士三郎

103 芙蓉の小径

2019-08-22 15:33:01 | 日記
---美しく歩む姿を保つべし 朝顔の露地芙蓉の小径---


近頃は風景画でも花鳥画でも季節感の強い絵は需要がない。
画商さんには一年中掛け替えなくて良い画題を描いてくれと頼まれる。
季節毎月毎に床の間の絵を掛け替えて楽しんだ時代は日本の生活文化の頂点で、どうも前世紀の生活の洋風化と大衆化により、文化程度は低下してきたのではないかとも思う。
床飾りを月々新たに工夫する事は楽しいし、個人的儀式として日常に美と荘厳さを与えてくれるのに。

伝統的画題の中で一年中飾れる四季花鳥図は、四季の花が同時に咲き揃っている浄土の景で私も好きな画題だが、描くには屏風か結構大きな画面が要るのでこれ又売れにくい。
他には桜 紅葉図とか春秋の2枚並びで四季を象徴する様式もあり、また大名様式とも呼ばれた観音 牡丹 芙蓉図などの三幅対は、春の牡丹と秋の芙蓉で仏教世界の四時を象徴している。

そんな訳で芙蓉は古来から秋を代表する重要な花だった。
晩夏から初秋の散歩道に咲く種々の芙蓉は、我が晩生の場面場面を美しく引き立ててくれる。
私にとって芙蓉の中でも殊に酔芙蓉は、牡丹と共に何枚も本画に描いて来た大切な花だ。
普通の一重の芙蓉より豪華で、紅の濃さの自由が効いて描き易いのだ。


(朝方の酔芙蓉 赤いのは昨日の終い花)
酔芙蓉は朝方はほのかに薄紅が兆す程度なのに、昼下がりには濃い紅色になり夕べには閉じてしまう妖艶な一日花だ。

---酔芙蓉何もせずとも時は過ぎ---

(昼過ぎの酔芙蓉)
朝昼二度は見に行かないと紅色の変化を味わえないが、何度か足を運ぶ価値はある。
もちろん自家の庭に咲いていれば言う事無しだ。
地植えだとかなり大きな株に育つので、むしろ鉢植が良いかもしれない。


(この露地の先が上の写真の芙蓉垣)
次々と壊されて行く古き良き時代の家や庭を惜しみつつ、来年にはもう無いかもしれない芙蓉の垣の美しさを永く記憶に留めたい。

©️甲士三郎

102 心眼の星祭

2019-08-15 13:46:08 | 日記
---家家に猫の塔立ち星祭---

鎌倉は海岸まで行ってもかなりの光害があり満天の星は望めず、写真は星ではなく小満の月で御勘弁。
まあ澄んだ空でも私の視力では一等星くらいしか見えないが、折角の星祭の夜なので夜の散歩に出てみた。
それでも隠者の心眼には煌々たる銀漢が映っているので、そこそこ星祭りの想いには浸れる。

想いに浸るとか思索に耽ると言うのは、仕事や勉学のように目的に向かって集中するのと違って心をぼんやりと世界に溶け込ます事だ。
瞑想とか只管打坐に似て脱俗は必須だが、別に修行している訳でも無くただ色々想うだけで良い。
加えて思索の覚書として短詩か句歌が作れると、思考言語の格調が上がる気がする。
古の賢人達の著作も、その多くが韻文詩文である。

星祭(七夕)や盂蘭盆会は明治政府が新暦でやるように命令してしまったため、東京近辺では梅雨の最中に笹飾りが立つ。
明治政府の愚策強制が届かなかった地方では、伝統行事は今も旧暦で自然の季節に合わせてやっていて喜ばしい。


(青木木米作 陶製観音像 江戸時代 古瀬戸仏花器 江戸時代)
青木木米は江戸時代後期の文人画家にして著名な陶工。
彩色なのでより生身の女性像を感じさせる。
星の代わりに燭を沢山灯して幻想的な夜にしよう。
一人行う季節季節の儀式は精神生活を厳粛にしてくれる。
神との対話は古来から常に一対一だ。
密教の曼陀羅世界は現代科学の宇宙観と良く似ている。
古人も星空を眺めながら、遥かな時を思索に費やしたのだろう。

星景写真が撮れなかったので代わりに夜景猫を撮ろうと街をうろついたが、この夜は全く見付からなかった。
---星祭街から猫の消えてをり---

©️甲士三郎

101 蓮池水禽の涼

2019-08-08 13:29:58 | 日記
---じたばたと浮葉に滑る子鴨かな---

鶴ケ岡八幡宮の源平池に蓮が咲いて、青鷺や鴨が遊ぶ景は涼しげで飽きない。
今年は長雨による低温と日照不足の影響で蓮の花付きが悪く葉もかなり立ち枯れているが、子鴨達は元気に育っている。
花鳥浄土を移した庭園と言えど、普通は眼前の蓮池を見ても只の蓮池にしか見えないのが当然だ。
そこでこの源平池が作られた戦乱に明け暮れた時代を夢想すると、この美しく平和な場所がいかに尊い聖域かわかってくる。
飛鳥時代の橘夫人厨子には蓮の葉の上に座す花精のような菩薩達が描かれていて、更にファンタジックだ。
古人達の夢幻浄土と現世苦界の間の落差は現代より遙かに大きく、その分切実に美しい。

---蓮池に蓮無く空きし水面あり 翔び立つ鳥の為に輝く---

(源平池の主の金色の大鯉と鴨)
観光客が餌をやるとすぐに出て来る金鯉は、浄土庭園の主としてはいささか重みに欠ける。
よく、鳥に投げた餌を水中から横取りしている。
それでも緑の葉影を揺らして悠々と泳ぐ姿は美しく光貴に映る。
この景を盛り上げるBGMは、夏の光に合うドビュッシーかラヴェルが良いだろう。

蓮池水禽の絵柄は古代から描かれて来た画題で、東洋人の夢見てやまない理想郷だ。
純粋絵画は勿論、陶磁器や調度品の装飾に多く見られる。
殊に夏には涼しげで飾るにも使うにも最適だ。


(蓮池図粉彩蓋碗と茶盃 清時代)
水鳥がいる色絵碗が無かったので、花だけの粉彩碗を二つ。
粉彩には大抵達筆の漢詩がついていて高雅だ。
これで冷やした蓮花茶や白桃烏龍茶を喫するのが、文人の処暑として最もふさわしい。

今回(も)写真のピントが悪いのは、眼の手術の後なので御勘弁。
---眼病の進まぬ内に見ておくか 古き写真の皆の笑顔を---
画業の方は御心配無く。
隠者は心眼で描ける。

©️甲士三郎

100 スピリチュアルライフ入門

2019-08-01 14:01:36 | 日記
この小稿も読者諸賢のお陰で100回を迎えた。
この期に隠者流スピリチュアルライフの更なる理解と充足のため、もう一度初学に戻ってこれまでの試行を纏めてみようと思う。

全人類の政治 経済 科学 芸術などのあらゆる奮闘努力は、煎じ詰めれば「より良い暮し」を目的としている。
良い暮しと言っても様々あるが、現代人が物質的に生きるだけでなく精神面の充足を願うなら、20世紀に廃れてしまった哲学 宗教に代わるスピリチュアルな物を見つける必要があるだろう。
古からの食前の祈りのように、気候風土に溶け込んだ暮しの中での精神性だ。
俗化した己れの衣食住と生活習慣を見直し、暮らしの折々に霊性を取り戻そう。


(ハーミットレリーフとブラス ピューター製の器類 19〜20世紀初頭)
先達の隠者(ハーミット)の小屋を描いた陶板で、私もこんな部屋で書見彩管に明け暮れたい。
これまで何度か話したように初学は自分なりのアーティファクト(聖遺物)を探し出し、祭壇とまでは行かなくとも卓上に飾り茶飯を少し儀式化するだけで、小さいながら離俗の結界として己が楽園建立の橋頭堡となる。
また季節季節の供花も、人生に荘厳さを加えてくれる。
一卓から一室、一室から一館へと聖域を広げて行けば、やがては夢幻の楽園に至るだろう。
先ずはそんな精神の不可侵領域を持つべきだ。

離俗の結界を作るに、幻獣 守護聖獣は動物好きの人達にお薦めだ。

(瑪瑙製僻邪像 元〜明時代 ファイアーキング オーロラガラス 20世紀)
僻邪は有翼の獅子のような姿で邪気を遠避けてくれる聖獣。
こういった物は古ければ古いほど強力なので、出来ればアンティークで探したい。
聖獣のうち鳳凰 麒麟 獅子 龍の絵皿や花瓶なら、ネットオークションでも結構見つかる。
暑い夏もたまには戸外の木陰で、風に吹かれながらのアイスティーで天霊地気を取り込もう。

隠者流の夢幻観想法は、止観(見るのをやめて想う)、観応観入(事象に反応し感じ入る)、観想(想い描き具現化する)、の三段階を経て観自在(観音の別名)に至る道だ。
例えば路傍の花を見ても、視覚には入っても認識しない人、見て何かを感じる人、その花から楽園を具現出来る人と色々いて、その経験が数十年も重なれば正に圧倒的な差になってくる。
想いの数だけシナプス回路が形成され、脳の処理速度が飛躍的に速まる訳だ。

さてこの辺で街まで散歩に出てみよう。
外界をぶらつく時にも季節の風光や花鳥に観応し易くなれば、詩画の題材も輝いて見え見飽きた街も楽土と化すだろう。
---旧世界定めの通り裏路地は 朽ちて明るく花に埋もれる---

芭蕉の「虚に居て実を行う」は少し難解だが、例えば映画のワンシーンのように自分が野や街を歩いているのを観客席から眺めている感じだ。
又は夢幻界で美神詩神達と茶会をしながら、現世の自分を題材に詩歌を吟ずるようなものだ。
歩きながらそんな視点の多角化を行うと良い。

---街中の色の滅する炎昼も 窓辺を好む選良の民---

いつものカフェで、ぼーっと孤高に稿を練る。
店ではほとんどの客が数人連れだが、詩想を求めて街中に出る時は努めて一人でなくてはならない。
友人知人がいると大抵は楽しくも俗なお喋りで時が過ぎて行くものだ。

どうにもうまく纏まらない文で申し訳ない。
理想のスピリチュアルライフも結局は禅と同じく不立文字で、それぞれ自分なりの方法論を探れと言う事だろう。

©️甲士三郎