鎌倉の隠者

日本画家、詩人、鎌倉の鬼門守護職、甲士三郎の隠者生活

86 武門の食卓

2019-04-25 13:26:42 | 日記
御家人崩れの我が祖先達の大正風和洋折衷の暮しを思いつつ、洋食器の選定基準を和の茶懐石を中心とする武家文化の位格と比較してみた。
どう見ても侍の裔には似合わないロココ調貴族趣味を除外して探していると、結局イギリスのカントリー スタイルに行き着く。
装飾過多のフランスよりやや無骨で簡素、しかしドイツほど野蛮では無い辺りが日本人にも合いそうだ。
貴族趣味ではなく騎士趣味とでも呼べば、我が国の「武家好み」と言う呼称にも通じる。

(ピュータープレート イギリス 19世紀)
火を吹くドラゴン(サラマンダーかも)にクラウンをあしらった無骨で古風な楕円皿は、武門の裔の我が父祖達が使うのにも如何にもぴったりだったろう。
雄渾さと品格が両立していて、桃山時代の織部や伊賀のダイナミズムに通じる物があろう。
洋物で桃山期の茶陶に対抗できるのは、まずピューター(錫合金)かブラス(真鍮)などの金属食器で形に豪快さがある物だ。
ピューターならまだ安く手に入るので、うまく磨り減り古色の付いた物は迷わず確保しよう。
ピカピカの銀食器は遠目にはステンレスと見分けが付きにくく、過剰装飾が返って安っぽく見える。
それよりはまだ銀メッキの剥げて変色した物か、錆びたブリキの方が風格がある。
前世紀迄は珍重された先述のロココ調色絵磁器や金襴手は、今のプリント磁器と大差無く思える上に桃山茶陶や中国古陶磁に完膚無きまで位負けしてしまう。

和食器に洋食を盛るのは簡単に合わせられたが、洋食器に和食は半端にモダンなレストラン調になって全然つまらなかった。

(和食器で洋食 瀬戸麦藁手碗 絵唐津皿 三島小皿 いずれも江戸時代)
我家の和食器の中でも武家好みの粗放さのある陶器に、カフェオレと簡素な朝食を乗せても全く違和感なくいく。
染付や色絵古伊万里は言うまでもなく向うの貴族達が昔から使っているので洋食に合わない訳が無いが、隠者には華美に過ぎ豪壮さに欠けるのでたまの来客用だ。


こちらは百年ほど前のイギリスのシンプルなピューター製スープボウルとスプーンにパン皿で、隠者の質素な食生活にはぴったりだった。
質実剛健の日本の武家文化に通ずるのは、西洋では貴族より郷士豪農、宮廷より地方の文化で、前々回でも話した18〜19世紀の英国カントリー コテージの生活雑貨が使いやすい。
こうして見ると明治大正の和洋折衷の民家も洋館もそこでの生活設計は良く考えていて、程よく日本の風土風習と折合いをつけて、その理想の高さは現代のコンクリートの箱より遥かに上だったように思える。
まあさすがに鹿鳴館で社交ダンスは侍たちの末裔には似合わなかっただろうが………。

©︎甲士三郎

85 耽美の雨道

2019-04-18 13:58:26 | 日記
この1週間は曇りや雨で花冷の日が多く、花のスケッチは出来なかった。
その代わり写真の方は去年購入した防塵防滴の最新鋭高画素カメラが大活躍だ。
このカメラがあれば雨でも返って普段撮れない光景に出会えるのではと、夜明も待たずに出掛ける気にさせてくれる。
新しい道具を買うとモチベーションが上がってくれるのは良い事で、お陰で私のフォトライフは数十年間飽きずに楽しめている。
日本画や詩歌には最新鋭の用具など出現する余地も無いのだから、その点では機器の進化で表現も進歩できる写真家が羨ましい。
さらに写真の場合は特に明と暗のどぎつい晴天下より、雨か曇りの光線の方が花の色調と陰影が柔らかく撮れるし、植物自体が瑞々しく潤って生命感が増す。

---夜雨に散り朝日に朽ちる花びらの 刹那を前に透けてゆく白---

(春愁の花屑)
雨の夜明の蒼ざめた光の中で朽ちゆく花屑は、隠者をゴシックロマンの耽美世界に誘ってくれる。
19世紀ヨーロッパでは日本種の椿が珍重され各地のローズガーデンにも植えられていたそうで、私の大正風和洋折衷の暮らしには丁度良い花だ。
そんな種々の落花を眺めながら寂寞と日を送り、花時の孤絶感を噛み締めてこそ美しき晩生というものだ。
たぶん19世紀末ヨーロッパ人も大正時代の耽美派も、今の作家の方法論のような発表前に一度冷めた目で自己客観視するという作業はしていないと想う。
せっかく良い気分で夢幻の作品世界に浸っているのに、わざわざ冷めて現実世界のマーケティングを考えるなど愚の骨頂だ。
皆も己れの失われた青春を慈しみ、行く春の感傷に思いっきり浸れる至福の時を大事にして欲しい。
そんなシーンに最適のBGMには先日亡くなった巨匠フランシス レイの「ある愛の歌」をお勧めしよう。
自分と重ねて往時の名画を偲べば、またどっぷりとノスタルジーに浸れる。

ついでにこの季節限定の桜チップで焙煎した某カフェチェーンの珈琲が、行く春の名残の香で格別良かったので推奨しておこう(すでに完売だと思うが)。

(右端がその桜チップの珈琲)
鎌倉文士達も珈琲好きが多かったようで、この写真も大正時代の雰囲気が出るように色温度を一工夫してみた。
百年前の耽美に迫るには現代の色調よりも一段深い陰翳と重厚感が必要だ。

一度上がった雨が夕方の買物に出た時にまたぽつぽつ降って来た。
雨の買物時のBGMはフランシス レイ続きだが「シェルブールの雨傘」以外有り得ない。
傘を差しながら水路の花筏を撮影しようと身を乗り出した時に、何かを落とした水音がしたのだが、ポケットもバッグも調べて失くした物は思い当たらない。
分からないままだと得体の知れぬ喪失感だけが残って仕方ないので、十円玉でも落とした事に自分で決め付けた。
---水底に銅貨の錆びる花筏---


©︎甲士三郎

84 花鎮めの独吟

2019-04-11 15:30:40 | 日記
---いにしへの都の鬼門風の谷戸 宙(そら)逆しまに散花吹上げ---

(花下独酌の古唐津徳利と盃 江戸時代)
我家の和洋折衷化の話はまだ前途多難なので、今回は純和風の隠者流花鎮めの秘儀を少し公開しよう。
花鎮め(鎮花祭)とは散っていった花を悼み湧き立った命を鎮める祭事だが、鎌倉の鬼門守護職である探神院では鎮めておかないと花鬼と化す花屑を滅却するのが勤めとなっている。
以前お見せした護法剣もその為に伝来する武具である。
やる事は有り体に言えば花霊滅却の和歌吟詠とそれに合わせた護法剣の演舞だ。
鎮花の心情は西欧のレクイエムに近いが、花にも霊性を感じるかどうかが違う。
カトリックでは人間以外の鳥獣草木に霊性を認めていないのだ。

---落椿蕊を保ちて朽ち行きぬ---

(我が探神院脇の小流れ)
私の人生では六十数回の春が去来したが、その内幾つの春を憶えているだろうか。
多分六十年の半分も無く、何の記憶も残らない空虚な年月が如何に多かったか。
出来事や感動を生き生きと覚えていたり、良い絵や詩歌を残せたりした春は少ない。
誰の想いにも記憶にも残らない春というのは、花精達にとってはきっと一番悲しい事だと思う。
従って当院の花鎮めの秘儀は絶後の歌舞を催し、歳々の春の想いを己れの魂に刻み込むのがその眼目である。
誰かがこの春を心の隅に留めてくれれば、花屑も鬼と化さず寂滅の想いを遂げる事ができる。


(苦吟中の隠者)
現世では歳を取れば取るほど物事に対する感受性は鈍くなる。
ただ食って寝て漫然と暮らしている者には、真に感動するようなドラマはもう生涯訪れないだろう。
だからこそより希求力を強め、積極的に世界を想うべきなのだ。
例えばいっそ地べたに直に座してみれば、花冷の想いは格段に深まる。
例えばカメラのホワイトバランスを操作すれば、色界は劇的に変容するのだ。
現実世界に能動的に感応し、より美しく感動的な夢幻世界を観想する。
その辺りの虚実皮膜の行き来が、言うなれば隠者流の秘儀と言えよう。

---花冷が臍に及べばさやうなら---

©️甲士三郎

83 花精の茶会

2019-04-04 15:59:35 | 日記
昨春は抹茶の野点をご披露したので、今年は紅茶で野辺の花精達と惜春のティーパーティーにしよう。
庭ではないのでガーデンティーとは言えずフィールドティーとでも言うべきか。
お気に入りのカップと家で入れたミルクティーを保温ポットで持って行けば楽なので、近所に良い場所があれば皆も是非試してほしい。
これまで見過ごしてきた小さな花や、運良く花精の気配を感じられるかも知れない。

ありふれたウエッジウッドも野に置くと伝統の品の良い色合いが生きるので、今日は花の精のために薄紅色を、隠者には浅葱色のカップをアンティークブラスのトレイに乗せて用意した。
当初のプランは我が狭庭の三種の椿に囲まれた所に小テーブルを持ち出してガーデンティーと思っていたのが、今年は花付きが悪く開花時期も三種がずれて上手く行かなかったのだ。
草地にトレイだけで良いのかと危惧していたが、踊子草の可憐さで救われたようだ。
隠者の夢幻界の花精は大抵この踊子草から具現化するのだが、皆の好みはどの花だろうか。

缶コーヒーやペットボトルでも洒落たボトルカバーでもかければ様にはなるので、皆それぞれのお好のティーパーティーで花々達と春を惜しむと良い。
惜春のBGMはティーパーティーにクラシックだと月並な貴族趣味に陥りそうなので、ここはフランスの誇るララ ファビアンの哀感溢れる名曲「ブロークンボウ」だ。
もう少し経って春も名残ともなれば、同じララのアダージョあたりも良い。


(猫神像 江戸時代 探神院蔵)
散歩がてら付いて来た我家の猫神様も、野遊びにご機嫌だ。
---猫神に踊子草の侍る古都---

©︎甲士三郎