鎌倉の隠者

日本画家、詩人、鎌倉の鬼門守護職、甲士三郎の隠者生活

255 滅却の冷茶

2022-07-28 13:05:00 | 日記

隠者の茶事は離俗清澄を心掛けてはいるものの、疫病禍と介護ストレスに加えてこの蒸暑さが重なると中々心底を鎮めるに至らない。

欧米や中国はもっと酷い熱波に曝されているらしく、鎌倉のせいぜい3233℃の暑さなら平気にならなくてはと思う。


そこで今日は冷房に頼らずに、遠蜩を聴きながらの朝涼のガーデンティーだ。



(ファイアキングモーニングプレート アメリカ1950年代 小杉焼小瓶 幕末頃)

ミルクガラスの水色のティーセットに庭の露草を添え、ピーチアップルのアイスティーはどうだろう。

良いと言えば良いのだがどうも普通程度の涼しさで、もう少し精神的な深みが欲しい。

大正時代ならばこのくらいで十分満足出来ただろうに、現代人はとことん贅沢に脆弱になってしまった。

しかもほんの1520分で庭も暑くなって来た。


気候変動で我が残生の中でも夏の割合が増え、暑い時期をどう美しく暮すかは今後重大な問題だ。



(鉄絵鉢 急須 清水六兵衛 江戸時代 山中人饒舌 田能村竹田 江戸時代)

文人好みの水禽図の鉢にちょっと小花を浮かべ、田能村竹田の幽陰の詩を読みながらの冷茶は、隠者にしては結構気の利いた取合わせだと思う。

煎茶興隆の祖の一人である清水六兵衛の水鳥の絵が涼しげだ。

当時の作法決め事で息苦しくなった抹茶道(茶の湯)に対し、自由さと異国趣味(中国)を取り入れた煎茶は京都の文化人達の好みに合っていたようで、瞬く間に日本中にも広まった。

ただし枯淡古格の鉄絵は深みはあるものの爽やかさ鮮やかさはない。

夏なら唐物の染付鉢の方が良かったかも知れない。


ついでに一つ現代人でも寂滅禅定の境地に達するような床飾りを試そう。



(直筆句幅 高浜虚子 炉鈞窯水差 緑釉蓮弁碗 清朝時代 松代焼瓶 明治時代)

「老僧の骨刺しに来る藪蚊かな」高浜虚子。

「骨」に諧謔と禅味があり、句としては実にうまいと思う。

この句は虚子の友人であった鎌倉円覚寺の釈宗演がインドで一夜蚊の大群に襲われつつ大悟した事を詠んだらしい。

俳諧の巨人虚子と近代臨済禅の巨星釈宗演の友誼を思えば爽快さもあるが、どうも藪蚊の句では涼しい気分にはなれない。

隠者は恵林寺快川国師の「心頭滅却すれば火もまた涼し」は軍国教育に利用される程度の俗言で、一休禅師の「死にとうない」の方が偉いと思っているから暑いものは暑いと言ってしまう。

茶器花器を淡めの青緑で揃えたアイス抹茶ラテで少しはクールになったが、次の日には以前紹介した水原秋桜子の「瀧落ちて群青世界轟けり」の軸に変えた。


結局己が精神を清澄にしたいのなら、自分で涼しく深みのある詩句を作るのが一番だ。

藪蚊の句よりは涼しげに作れるだろう。

ーーーかなかなの声透き抜ける幽居かなーーー


©️甲士三郎


254 河童忌の祭壇

2022-07-21 13:13:00 | 日記

7月24日は鎌倉文士の芥川龍之介の命日(河童忌)なので、隠者の都合で少し早いが供養の祭壇を用意しておこう。

彼は若くして自ら命を絶ってしまったが、鎌倉にいた頃は友人知人達と楽しそうに過ごしていた逸話が沢山ある。


中でもとりわけ親しかった久米正雄や室生犀星らとの遊俳は、遺された手紙や手記に生き生きと書かれている。



(澄江堂句集 芥川龍之介 句集返り花 久米正雄 魚眠堂発句集 室生犀星 共に初版)

上段中央が「澄江堂句集」。

大変な愛煙家だった芥川には、大正頃の喫煙具で煙草をお供えしよう。

久米正雄や室生犀星は芥川にとってかけがえの無い文雅の友で、皆俳句好きだったらしく芥川が高浜虚子に句を褒められた時には得意になって久米正雄への手紙で自慢している。

句友たちとの吟行やカフェでの風雅の語らいの楽しげな様子なども菊池寛や犀星の随筆にも書かれている。

彼の死後に友人達はみなあのまま鎌倉に居ればこんな事にはならなかったろうと、また生前の芥川自身も鎌倉から移ったのは失敗だったと語っている。

学生時代以来の友人に加え虚子や釈宗演といった偉大な先達とも触れ合えた鎌倉は、風雅の士達にとっては正に楽園だっただろうに。


小説の方も鎌倉で執筆した短編に佳作が多く、田端に移ってからはやや低調な作風になってくる。



(羅生門 影燈篭 傀儡師 夜来の花 黄雀風)

いずれも鎌倉在住前後に書かれた芥川らしい気の利いた短編集で、この後の中国旅行あたりから作中にも苦悩が窺えるようになる。

田端に移った後も度々鎌倉近辺に静養に来ていて、鵠沼あたりに居を構える気もあったようだ。

芥川龍之介の初版本は元々高値で安定していたが、ここ2年ほどは泉鏡花や柳川春葉ら他の作家の古書価格急騰の陰で、今では相対的に安く感じるようになった。

私は古茶器と同じく古書も時代相応に汚れている方が好みなので、印刷したてのようなまっさらな美麗本より痛んで安く売られている物ばかり探してしまう。


私が芥川の本の中で最も気に入っているのが下の「澄江堂遺珠」だ。



(澄江堂遺珠 初版 芥川龍之介 古志野香合 明治〜大正頃 古銅観音像 清朝時代)

芥川の死後遺された手帳に書かれていた詩画を、総手漉き和紙の豪華版で追悼した本だ。

胴体が芋虫になった恩師漱石の戯画まであって面白い。

掲載の詩はほとんどが未完のままだが、彼がいかに詩や俳句に心引かれていたかが良く伝わってくる。


ーーー風吹けば去る白服の詩人かなーーー

大正文士達の時代を振り返って見ると、古き良き鎌倉の風土あっての文芸であり、文士達が居てこそ鎌倉は楽園楽土たり得たのだろう。

この鎌倉文士の命日は、時の狭間に稀に現れた当時の詩神達の楽園を心に刻む日としたい。


©️甲士三郎


253 幻住の水辺

2022-07-14 13:11:00 | 日記

古の隠者は「家のつくりやうは夏をもて旨とすべし(徒然草)」と教えている。

冬の寒さは火や布団で何とか凌げるが、エアコンの無い時代の夏の暑さはどうしようも無かっただろう。


文人達の遺した詩書画には涼しげな水辺の草庵が頻繁に出て来る。



(復一楽帖画譜部分 田能村竹田 大正時代 ガラス皿杯 昭和初期)

河畔の門に使いの童子が友人を迎えに出て、左奥の草葺きの庵に書見の主人が見える。

この竹田の名作画帖は完成後直ぐに親友の頼山陽が気に入って強奪し賛を入れ頼家に伝わっていたものが、その後の第二大戦の空襲で焼失してしまった。

従って写真原版としてもこの大正版しか無い。

12枚の絵にそれぞれ題語の詩が書いてあり、12枚中6枚が四季の水辺を描いている。

日本では風景画とは言わず山水画と言うように、水に清浄感を抱く国民性なのだろう。

我家のすぐ傍にも瑞泉寺から流れ来る細い川があって、常に微かな水音が聴こえ日々の暮しに潤いを与えてくれる。


次の絵は竹田の一番弟子だった高橋草坪の飛切り夏向き(題語の詩は晩春)の小品。



(漁父図 高橋草坪 江戸時代 古九谷酒器 幕末〜明治 李朝燭台)

草坪は天賦の才を惜しまれつつ早逝してしまった悲運の画家だ。

岸辺の葦に小舟を寄せて漁夫が足を水面に浸けて涼んでいる。

月下の漁火図や舟上で寝ている図など色々あって、当時は釣人漁夫の絵柄は人気が高かったらしい。

我が画室でも置き床に掛けたこの画中から、水面を渡る涼風が吹き出して来るようだ。

帆柱に干してある蓑笠が、詩も合わせた構図のバランスとして利いている。

我家には彼の作品が3点あるが、短命だったために作品数は少なく入手に苦労した。

その分推奨できる良作揃いなので、この秋にはまたお見せしよう。


もう一つは蕪村の弟子で応挙と共に円山派の祖となった呉春の水上書屋の軸。



(書窓届魚図 松村呉春 江戸時代)

我国でも数多く描かれた水上に張り出した庵の画題は、中国の大リゾート洞庭湖の古画が下敷きとなっている。

呉春のこの図は文人が書屋の窓越しに漁夫から魚を受け取っている図だ。

湖畔の緑が実に爽やかで、せめて1週間でもこんな水辺のリゾートで過ごしたい。

ーーー漣も風も光も止めどなく 寄せ来る岸に涼しく老いぬーーー


鎌倉は海辺で東京よりはだいぶ涼しいが近年の気候変動で夏が長くなり、暑さに飽きずに過ごすには精神的な拠り所が欲しい。

古の文人達はこのような絵の中に移転して清浄なる水辺の夢幻の暮しを楽しみつつ、酷暑の濁世を耐え忍んだのだろう。


©️甲士三郎


252 涼風の掛軸

2022-07-07 13:03:00 | 日記

ーーー画中竹渓呼涼風ーーー

早すぎる梅雨明けでこの先9月末まで3ヶ月の猛暑の間、精神面の清浄を保つには電力に頼った処暑だけで無く一層の工夫が必要だろう。

まずは床の間や机上には少しでも清涼感のある書画を掛けたい。


夏の宵には絵の中から涼風が吹き出して来るような掛軸が良い。



(月明竹渓図 浅野静洲 明治時代 山陽遺稿 江戸時代)

竹林を行く小流れから微かな水音と涼風が我が画室に通う。

古い詩書画には圧倒的に春と秋の物が多くて夏物は最も少なく、その中でも高雅清澄な作品を入手するのは中々困難だ。

しかし昨今のテクノロジーのお陰で、山中に隠棲しながらも膨大なネット上の品揃えから予算に合った物を選べるようになった。

エアコンは物質的には十分涼しく有難い物だが、精神的な暑苦しさや閉塞感を和らげるには詩書画や美術品の方が上なので諸賢も是非お試しあれ。


次は正岡子規の珍しい大景の句。



(直筆短冊 正岡子規 明治時代 古染付雲龍紋瓶 炉鈞窯水差 清朝時代 白磁碗 李朝時代)

「かみなりの雲をふまへて星すずし」子規

彼方に湧き立つ積乱雲とその上に広がる星空を詠んでいる。

子規は闘病時の庵内外の句が多い中で、こんな爽快な心持の時もあった事が嬉しい。

明治人らしい大らかさと気宇がある。

この句で涼めるか否かは、如何に子規の心情に観応出来るかで違って来る。


一夜明けて今日は新暦では七夕だが、隠者は旧暦で暮しているので本番は来月だ。

そうは言っても鎌倉中七夕飾は今しか無いので、取材だけはしておいた。



古き良き時代の人々に取って、七夕祭はさぞ夢幻の美しさと涼しさに満ちていた事だろう。

八幡宮の舞殿は星空も見渡せるので七夕飾には適した場所だが、鎌倉は今年も曇りか小雨の予報だ。

もう何度か話したが薩長明治政府の新暦令は産業面では良しとするも伝統文化の季節感は全く考慮せず、特に関東周辺では強制的に行事の時期を変更させた。

政令の行き届かなかった地方では今でも旧暦の七夕が残っている所は多いので、諸賢もせめて個人の自由が効く範囲で七夕と星祭くらいは梅雨場を避け旧暦で行っては如何だろう。


©️甲士三郎