鎌倉の隠者

日本画家、詩人、鎌倉の鬼門守護職、甲士三郎の隠者生活

186 木花咲耶姫の庭

2021-03-25 13:43:00 | 日記

山桜に少し遅れて、染井吉野が一斉に咲き出した。

隠者が長年探していた木花咲耶姫の像が最近やっと入手出来たので、桜に間に合うようにお祀りした次の日に開花だ。

この姫神と共に暮せる春は、幸福感が数段高まる。


(古備前木花咲耶姫像 幕末〜明治時代 土佐派花鳥小屏風 江戸後期)

手に花の枝を抱えているのが木花咲耶姫の特徴である。

姫神が佇む足元に画中の木から花びらが散って、木花咲耶姫の聖なる庭のようだ。

昔から仏像の制作数に比べて神像は1/1000も作られていないので、姫神像を探すのは大変難儀した。


翌朝は2階の窓から見える山の端の桜も咲き揃った。


我が谷戸は花の女神降臨で一夜にして春色が広がり、輝くばかりの楽土に変わった。

窓を開ければ春風が入り込み、鶯や蛾眉鳥が遠近(おちこち)交互に囀っている。

今朝の開花が全て木花咲耶姫の力とは言わないが、姫神と共にこの景を味わえる事で隠者の喜びはより大きくなるのだ。


猫神様も花の女神の庭で嬉々として遊んでいる。


(木彫猫神像 安南? 江戸時代)

本朝には八百万もの神々がいるのだから、猫神様も居るに違いない。

古びた木の彫像は自然の中が良く似合う。

蒲公英は花時も絮になっても、猫が寄り添って絵になる花だ。


今週は桜の取材で句歌に絵に忙しく飛び回る予定で、その計画を考えるだけでもわくわくする。

出来ればその時も、鞄の中で姫神様も御一緒願えれば幸いだ。


©️甲士三郎


185 囀りの結界

2021-03-18 13:52:00 | 日記

春闌けて来て朝方窓を開け放っても寒さは感じなくなった。

鳥達の囀りも活発になって、色々な鳴声を聴き分けるのが楽しい。

鳥達の囀りは濁世の騒音を遮断して、離俗の結界となっている。

ーーー囀りの中に書写せる経文の 意味こそ無なれ筆こそ舞はめーーー


我が荒庭の枝垂れ梅に来る小鳥は、居間の窓から撮影できる。

この時期は常に窓辺にカメラを置いて鳴声が聞こえたり枝が揺れたら構えるようにしているが、原稿書きや家事の合間にのんびりとやっている。

当然撮り逃す事が多いものの、人生では写真より囀りを楽しむ事の方を重視すべきであろう。


北庭の日陰で遅咲きの白梅に来た鵯も、また別の窓から撮る事ができた。


鵯の鳴声はあまり綺麗な方では無いが、それでも十分春の生命感を感じられる。

蒼穹の白花が花鳥世界の清澄さをを引き立てて、いかにも病魔凶事が祓われたような空気だ。


和室の中にも花鳥の聖域を創りだしてみた。


(七宝対鳥 清朝時代 大樋花入 江戸時代)

もう花季も終りの杏を剪ったので、活けている内にもはらはら散って行く。

夢幻界では畳に散った花屑を掃く事でさえ楽しい。

生き生きして美しく楽しい物は、それだけで禍事を遠ざける力がありそうだ。


我が楽園守護の瑞鳥である蛾眉鳥様は毎日美声で鳴いているものの、今週はどうもタイミングが合わずに撮れなかった。

蛾眉鳥は冬意外はよく庭に来ているので、またいつか良い写真が撮れたら当稿に載せよう。


©️甲士三郎


184 椿の難題

2021-03-11 13:24:00 | 日記

ーーー春愁い色多過ぎる瓶の花ーーー

亡父が好きな花だったので、我家には十数種の椿がある。

この温かさで例年は順番に咲く各種の椿が今年は一斉に咲き乱れ、我が荒庭はより一層の混乱を呈している。

せっかくの花なので散らぬうちに剪って三色活けでも試そう。


(古唐津仏花器 黄瀬戸四方鉢 江戸時代 花鋏 大正時代)

隠者の椿の活け方はいつも一花三花のシンプルな投入れなので、数色同時に活けるのには大変難儀した。

結局は活け上がった物より、途中の花材が散らかったこの写真の方が良かったのが情け無い。


花器を小壺に変え色は白を多めにしてみよう。

椿は葉の裏側に咲く事が多くて難しい。


(古備前掛花入 合鹿盆 江戸時代)

真ん中は隠者お気に入りの桃太郎と言う名の椿。

良い枝振りの物が採れず花が葉裏側なので、蕾を添えて誤魔化そうとしたがバランスが悪い。

葉がごちゃごちゃして思うように行かず、結局私に三色は無理だった。

豪華絢爛な洋風の色絵磁器なら多色の花も合うだろうが、その方向は隠者には到底似合わない。


(青磁小壺 李朝時代)

そしていつもの一花三葉の簡素な投入れに落ち着き、安堵のティーブレイクだ。

例によって大きいクッキーは家人が食べる。


どんなに花事が下手でも、花と遊ぶ時間は至福の時だ。

ーーー花買ひに週に一度は街に出む  世捨人とて街は恋しくーーー


©️甲士三郎


183 花園の守護聖獣

2021-03-04 13:31:00 | 日記

我が荒庭も花咲き鳥が囀る季節となって、朝目覚めるのが楽しい。

そのような暮しが永遠に続くよう、古人達は花鳥の楽園を守護する多様な聖獣を創造した。


(古伊万里色絵壺 幕末〜明治時代)

花園の中で子育てするコミックタッチの獅子が微笑ましい。

唐獅子と牡丹の取合わせは俗化した近世現代でもよくあるが、各種の花々が咲き乱れる中の聖獣伝説の方がより古くからある。

西洋では邪悪なモンスター扱いのドラゴンやライオンも、東洋では古代からの聖獣である。


下の写真は私が一番気に入ってよく使っている麒麟の皿。


(古伊万里染付皿 江戸時代)

蝶の舞う花園に生息する麒麟の絵の七寸皿だ。

草花と同じくらいの背丈になって、我が庭の小楽園を護ってもらうのには丁度良い小さな麒麟だ。

この宙を仰ぎ見る麒麟の構図が当時人気だったらしく、19世紀の古伊万里には良く登場する。


同種の発想がもっと古い中国にある。


(古染付皿 明末頃)

蝶と戯れる名の知れぬ聖獣の絵で、上の古伊万里ほど模様化されていない時代の物だ。

花時の我が荒庭や鎌倉の山野を見ていれば、この楽土楽園を開発や自然破壊から護る守護聖獣は現代にこそ必要だと切に思う。


楽園の建立は全人類の永遠のテーマであろう。

20世紀の社会的な意味でのユートピア建設は挫折した。

それを教訓に今世紀は己が夢幻界に守護聖獣を復活させて、個人個人の小楽園を建設する所から始めるべきだろう。


©️甲士三郎