鎌倉の隠者

日本画家、詩人、鎌倉の鬼門守護職、甲士三郎の隠者生活

165 精神生活の聖域

2020-10-29 14:24:00 | 日記

障子に移ろう秋の木漏れ日は、古き良き日本の精神生活を感じさせてくれる。

今日は和室に椅子とテーブルを据え珈琲を飲みながら、現代の日本人にも可能な生活様式の向上を考えたい。

最終目標は自室を濁世の罪業を浄化する聖域に仕上げる事だ。


物質文明下の現代社会ではどうしても洋風の生活が中心になるが、精神面では気候風土に根付いた日本の伝統文化を疎かにしては魂の安息は無い。

結局は以前にも出た大正頃の知識人のような、和洋折衷様式の暮しがベストなのだろう。

鎌倉なら大正文士の旧邸などで馴染みがあるが、一般的には同時代の各地方の郷士庄屋クラスの暮らし振りを思い浮かべれば良い。


和と洋の良い所取りの生活と言っても、当然うまく統合するには古今東西の文化の知識と創造力が要る。


夕食は和室の文机に胡座で、ナイフとフォークの洋食だ。


物質面だけを見れば、現代人の平均的な生活レベルは19世紀の王侯貴族を凌ぐ。

ゆえに向上させるべきは精神面だろう。

長い歴史と気候風土の中で洗練されて来た文化や思想宗教を深く理解すれば、古風な和の生活様式は今も美しく味わい深い物だが、人工的な都会の環境が好きで物質主義的な人には適していない。

利便性を求めて伝統の精神生活を捨てた現代人は、それに代わる理想のライフスタイルを子孫達の為に提示すべき責務があると思う。


隠者の理想は洋間だろうが和室だろうが、部屋には気品と清浄さをもたらす書画彫像を飾り、古格の花入に可憐な花を活け季節の茶菓酒肴を味わい、雪月花の時には友人を呼んで芸術や音楽を語り合えるような暮しが良い。

そして1日1回週1回でも古人の祈りの時間に似た、思索でも瞑想でも何か崇高な物と向かい合う時間が欲しい。

そんな日常茶飯事の小さな充足こそ、子子孫孫まで教え伝える価値のある精神生活だと思う。


©️甲士三郎


164 秋灯の街

2020-10-22 13:25:00 | 日記

肌寒くなってくると人恋しさや孤独感は深まるが、詩や絵や思索などは元々一人でやる物であって孤独なのは当たり前だ。

また秋が深まるにつれて隠者の思索が深まるかと言うとそうでもなく、そもそも思索とは一種の娯楽なので感興に浸りながらぼーっとするだけで深まりはしない。

苦労して掘り下げたり結論を求めるのは思考であって、思索では無い気がする。


そんな孤独感を噛み締めつつ、夕三日月の路地を皓々と灯る街の方へふらついてこよう。


普通の白い薄に少し遅れて赤い薄が一斉に開き、夕闇の中で夢幻に揺れている。

薄原は冬枯の頃まで残り、色々な情景を見せてくれるので有り難い。

穂の色が季節や朝夕の光で変化するので、写真でもバリエーションが増える。


秋の夜の街に出れば、飲食店の灯りの誘惑は抗い難い。

今は疫病禍でどの店も客は少ないが、例年なら夜な夜な酒舗に通う人も多い季節だ。


昔よく行った蕎麦屋の提灯は今も変わらずゆらゆらと客を誘っているが、私は血糖値の呪いで蕎麦も半分以上残さなければならず飲食店には行けなくなった。

ここで友人達と賑やかに詩画を論じた時代を懐かしむほか無い。


結局コンビニで明日の朝食を買っただけで、敗残兵のようにとぼとぼと街から退散して来た。


谷戸の路地は静かに寂しく灯り、山辺の深い闇へと続いている。

この寂寞とした秋灯の谷戸は孤絶の神仙境よりも俗世に付かず離れずの位置で、人間(じんかん)の悲哀を忘れずに過ごすにはほど良い所だろう。

我が谷戸に帰って草庵に夢幻の灯を点け、濃い目の珈琲で寛ぐとしよう。


©️甲士三郎


163 楽土の残照

2020-10-15 13:21:00 | 日記

今週はやや曇り日が多かったが、陽光が穏やかに降り注ぐ日には気象変動で短くなってしまった秋を満喫しに外出したい。

光族の精霊が舞うような野辺に遊行して、詩に画に存分没入するのが隠者の本然という物だ。


夢幻を記録してくれる例の古式写真機を持って我が楽土をうろつけば、いつしかミューズの天啓も降りてこよう。

上の写真でも隠者の幻視した光が、100年前のレンズによってうまく写り込んでくれた。

隠者はものぐさなのでデジカメの場合も「JPEG撮って出し」で、PCでの編集加工はほとんどしていない。


光の精と戯れる時間は刹那に過ぎ去り、谷戸の陽は早くも山に陰ってしまった。

下の写真の青影は昔のタングステンフィルムの効果を使っている。


さて忘れないうちに句歌の草案をメモし、そろそろ帰り支度だ。

私の句歌の仕上げはカフェや家でお茶を飲みながらゆっくりやるのが習慣で、それもまた楽しみな時間となっている。


まことに秋の日は釣瓶落しで、帰路は少し薄めの夕焼けとなった。


SNSなどの息を飲むような大自然の夕焼け写真と比べればこの程度では月並に思われるだろうが、歳を重ねると日常の普通の夕焼けにこそ哀愁を感じるものだ。

そんな身辺の些細な自然の愛おしさが、行く秋には一際身に沁みる。


ーーー行く秋の光を庭に囚へむと 垣を繕ふ楽しき愚行ーーー


©️甲士三郎


162 月の祭壇

2020-10-08 13:25:00 | 日記

鎌倉の中秋の月は満月、十六夜、立待月とほとんど雲に隠れていて、夜半にやっと顔を出す程度だった。

それでもわずかに雲間に顔を出した一瞬は、神秘的な虹色の月暈を見せてくれた。


ーーー光ごと月を抱きてうねる雲ーーー(旧作)


(中秋の満月)

古今東西を問わず人々は天に孤絶の美しさを見せる月を神格化して来たが、物質文明下の前世紀にはその信仰も薄れてしまった。

しかし無信心無宗教でただの物質として月を認識するよりは、月読命やセレーネ(ルナ)を想起する方が人間性に豊んだ生活だと思う。


3日粘って薄の上に掛かった月が撮れた。


(居待月)

現代人が失ってしまった日常の中の宗教的な祈りや哲学的な思索の時は、今思えば精神の充足には掛け替えない物だった。

よって現代人の精神生活の為には新たな神を創出するしか無く、今世紀の小説や映画では多くの神話的な作品が創られている。


月を祀って小祭壇を設け花や灯明を献げれば、そこに自ずと清浄な結界が生まれる。

簡素ながらも心静かに何かを祈る場所や時間を作れば、現代人の即物的生活も少しはましになるだろう。


(月天 奏楽天 中国人形 20世紀中頃)

隠者の地味過ぎる部屋には、華族風の月天と奏楽天を賑やかに祀ってみた。

御供物は兎型の栗菓子だ。

現代知識人に唯一絶対神は不要だとしても、穏やかな自然信仰は四季の暮しをより楽しくすると思う。


©️甲士三郎


161 秋麗の茶話

2020-10-01 13:38:00 | 日記

台風が去った後は急に涼しくなって、秋麗の日が続いている。

彼岸花が例年より1週間ほど遅れて、鎌倉の野辺では今が花盛りだ。

ようやく温かい飲物が欲しい時期となり、日々の茶の度にもぼーっと思索に耽りたいところだ。


今日は一段と爽やかな日和なので、午前のお茶は秋風の野に出てキンバリーのカラーバリエーションを並べ、花の彩と競い合わせる趣向にしてみた。

写真は例の古式カメラを使用。


(ファイアーキング キンバリーマグ 1960年代 アメリカ)

お茶はキャラメルフレーバーのミルクティーを保温ポットに入れて来た。

我が楽園の花精達が喜びそうな香りのお茶だ。

100年前のレンズの発色が隠者を夢幻界に誘ってくれる。


夕方は障子明りで岩波のイギリス詩集をぱらぱら眺めながら、和洋折衷の珈琲タイムだ。


(炉均窯ポット 清朝時代 青萩マグ 山根清元作)

曼珠沙華を取ってきて古伊賀の花入に投入れ、英国ビンテージ物のシャドウボックスを飾る。

和洋折衷の洋は諸国ある中、やはりイギリス調の物が重みがあって良い。

ワーズワースらの湖水地方でのスローライフは、若い頃の隠者の憧れだった。

ファンタジーゲーム好きの家人と、そんな話しが弾む。


夕食後は山栗の枝が手に入ったので、栗の和菓子にカフェラテを抹茶碗で。


(鳴海織部、黒織部茶碗 江戸時代)

栗の枝が花入にうまく収まらなかったので卓上に置くだけとなったが、秋の野趣は十分感じられよう。


秋の夜長は思索に耽るのに最も良い時で、また句歌の苦吟の時間さえ楽しくて夜更かししてしまう。

窓外では虫の声が幾重にも重なり、1日を共に遊んだ花の精達も満足して野に帰る。

私も今日の句歌と写真を仕上げてPCを閉じよう。

ーーー虫の音は無辺の闇に染み渡り ひと筋仄か曼珠沙華道ーーー


©️甲士三郎