鎌倉の隠者

日本画家、詩人、鎌倉の鬼門守護職、甲士三郎の隠者生活

178 古式写真機の幻視

2021-01-28 13:22:00 | 日記

今週は旧暦の年末に当たるので、この1年間隠者の病眼を補佐してくれた古式写真機の良さを語っておきたい。


およそ1世紀前のレンズとファインダーを通した曖昧模糊とした映像は、私を現実世界から夢幻界へと導いてくれる。

ただそれに気付いた写真家達が競ってクラシックカメラを買い求めた為に価格が暴騰し、今ではもう私の手の届かない物になってしまった。


(ライカDⅡ DⅢ ニッケルエルマー3.5cm 5cm 13.5cm ヘクトール7.3cm ドイツ193132年製)

若い頃から隠者の一番の愛機で、多くの旅を共にしてきた。

今の一眼レフと比べれば断然コンパクトで、何より電気を全く使わないので長旅も山奥に籠っても安心だ。

当然フルマニュアルなので操作にも経験と勘が必要となる。

今日の35mmフルサイズ規格の元祖がこのバルナックライカなので、レンズだけならアダプターで現行のデジカメでも使用できる。


(向かって右 コンテッサネッテル テッサー10.5cm f4.5 ドイツ1920年製)

私が使っているカメラの中では最も古い物で、蛇腹部分をたたんでコンパクトに出来る。

6x9cmのロールフィルムを使用する。

往年のコダクロームのブローニーフィルムも、近年のクラシックカメラブームで再生産されるようになり喜ばしい。

(左 ローライフレックススタンダード テッサー7.5cm f3.8 ドイツ1932年製)

テッサーは当時としては驚異的に鮮鋭なレンズで、色々な機種に採用されている。

二眼レフ独特の6x6cmスクェアサイズは、今のインスタグラムでも人気が再燃している。

上から覗くファインダーで、磨りガラスに写った左右逆像は周辺光量の低下の効果で別の世界を覗き込んでいる気分になる。

また二眼レフのクラシックなデザインが現代の街中ではとてもエレガントに見えて面白い。


古式写真機は他にもいろいろ使っているが、ここで作例写真も出しておこう。


(ライカDⅢ ニッケルエルマー3.5cm f3.5使用)

秋口のブログでこれと同趣の薄原の写真を使ったと思うが、今見るとこちらの方がシンプルで良かったかも。

レンズ銅鏡内のフレアーで、幻視の風と光が写った。

コントラストが低く柔らかな描写が寂光楽土の景に合っていると思う。


古い写真機を卓上に並べていると、明日にでも写真とスケッチの旅に行きたくなる。

芭蕉の「漂泊の思ひやまず」の気持ちが良くわかる。

早く病魔騒ぎが鎮まって、またこの愛機達と夢幻の春野へ旅立ちたいものだ。


©️甲士三郎


177 止観の凍光

2021-01-21 13:20:00 | 日記

ーーー凍窓は金色の陽を虹色にーーー

光は誰にでも見える物だがほとんどの人は日常の光に対しては無感覚なので、目の前に起る光の奇跡に感応出来る人と残念ながら感知も出来ない人がいるのは仕方の無い事実だ。

ましてや浄光は探求する者にしか見えない。

その要諦は大分以前に述べた止観(観るのを止める)と、観想(想い浮かべる)にある。


虚子の句「遠山に日の当たりたる枯野かな」では、文字通りの地味な寂しい景を思い浮かべる人が多いだろうが、暗鬱に沈む荒野の上で遠山の高みだけに浄光が差しているドラマチックな景を思う人もいる。

感応の次の段階の止観、観想とはそう言う事だ。


冬は陽光が希少なためにかえって光を感じ易くなる季節で、低い角度からの斜光は地の物を劇的に見せ、ただの枯草さえ神聖さを付与されたように輝く一瞬がある。

例えば末法の世の中世人がそんな荘厳な光に出会えば、移りゆく現世の儚さとこの景を永遠に留められる夢幻界の安寧がさぞ身に沁みただろう。


現代でも下の写真のような景は街中にありふれていると思うが、この光に観応するには10秒くらいは立ち止ってじっくりと眺める必要がある。

俗世では多忙で10秒さえ立ち止まれない人生の方が多いのだ。


こんな光景の前にぼーっと佇んで、世界の光と闇をじっくり観想できれば上等な人生だ。

光の探求者なら、この冷え枯れた景の中に荘厳な終末の光を見い出せるはずだ。


疫病禍に引籠るとも季節季節の中でささやかな喜びを見い出す暮しは変わらない。

光明は探せば常に身近にある。


大寒に入って朝の窓も凍りついているが、そこにも刹那に移ろう小さな光はある。

こんな日常の些細な光の美や浄らかさを深く味わえるなら、きっと豊かな人生を送れる気がする。


©️甲士三郎


176 待春の茶菓

2021-01-14 13:51:00 | 日記

宿痾に痩せて脂肪層が無いので寒さが骨身に沁みる時期だが、冬籠り中にこそ隠者の春の楽園への想いは強くなる。

窓外の枯枝を見ては花を幻視し風音を聞いては鳥の囀りを想い、我が草庵周辺をああしたいこうしたいと観想するのが楽しい。

温かい茶や珈琲を飲みながら過ぎ去りし春と来たる春を幻視していると、陰鬱な寒さも忘れられる。

そんな待春の日々の茶事にうってつけの茶菓と器を試してみよう。


(漆絵皿 琳派 江戸時代 古萩茶碗 江戸時代)

菓子皿は黒地に朱漆で簡素に描いた梅の図で、輪花のデフォルメにいわゆる光琳梅の特長が現れている漆絵皿だ。

大福餅のようなふっくらした梅のデザインが元禄頃に人気を博して、以降の琳派の絵には度々出て来る。

写真の皿は京から江戸に移った後期琳派(江戸琳派)の作。

現代のコミックアートに通じる楽しさがあって、耐寒待春の日々を明るくしてくれる。

茶菓は抹茶ラテに苺の大福で春色の取り合せだ。


珈琲の器を季節で変える人はあまり多くはないが、四季の器揃えがあれば長い人生もぐっと楽しくなるだろう。

洋菓子も和菓子のように季節感を楽しめる物がもっと増えて欲しい。


(コーヒーカップ&ソーサー 浜田露人作)

こちらのマグカップはネットショップでも買える現代作家物で、向かって左が冬用で右が春用。

この大正頃のライティングデスクで詩でも書きながら珈琲を飲むなら、気分はすっかり大正の鎌倉文士になれる。

ドーナツはあえて硬めの物を買ってきて、家で温めて食べる(家人が)


幾分か温かな日の午後は、陽溜りでガーデンティーにしたい。


(緑釉碗 クメール 15世紀 皿類は現代)

枯草の上に座ると陽の温もりを一段と実感できる。

草上の茶席から直ぐ移転出来る夢幻界の楽園を眺めれば、春爛漫の楽園の茶会でミューズ達と詩画音曲を語る隠者が見えるだろう。

ミューズが好みそうなオールドファッションのクッキーに、ミルクティーは17世紀の英国流にボウルで飲むのが古風で良いと思う。


気候変動で夏が長く春は短くなり、楽園の春は益々貴重な時間となってしまった。

その分を寒中から春の花鳥達を想い浮かべつつ、残余の生に美しき日を1日でも多く作りたいものだ。


©️甲士三郎


175 冬籠りの古壺

2021-01-07 13:24:00 | 日記

ーーー古壺の大口開けて春を待つーーー(旧作改題)

以前に壺中天の故事を話したと思うが、私は冬籠り中は花瓶より壺をよく使う。

枯草や実の枝を投入れるにはすらっと立つ縦長の花器より、ひしゃげて地に蹲るような形の壺が冬らしく思えるのだ。

また傷んだ壺が生き延びて来た数百年の星霜を想うには、冬籠り中の止まったような時間が適している。


(古信楽種壺 室町時代)

隠者が一番気に入っているのは焦げ石爆ぜ火色に自然釉の吹き荒ぶ、異形に歪んだこの信楽壺だ。

寒中にも火種を宿すような、戦国中世の壮絶な景を観じる。

小仙となって壺中の天地に暮すなら、是非この種壺を選びたい。

隣には前々回の写真の、大き過ぎてまだ食べていない冬瓜を侍らせている。

隠者の正月は旧暦なのでまだ先だが、来客用に小さな正月飾りだけ添えておいた。


こちらは盛大な火膨れが歳月によって冷え枯れた伊賀(信楽かも)の大壺に、荒地に立ち枯れていた薄をどさっと入れた。


(古伊賀大壺 室町時代)

寒中にも燭の炎色で、壺面の悲惨な凹凸も温もって見える。

戦場往来の古強者のような、貫禄のある大壺だ。

壺本来の用途は種や食糧の貯蔵だったので、大壺に越冬のための沢山の穀物を溜め込むのが農民や領主の喜びであった。


隠者は毎年新暦の正月から旧暦の正月までの寒中は冬籠りだったので、疫病禍の今年も変わらずどっぷり夢幻界に籠っている。


(左から李朝青磁壺 絵唐津段首壺 古備前鳶口壺 1718世紀頃)

立春までに使う予定の壺を幾つか並べ、これに何を入れるかを考えるのも楽しい。


小寒大寒の間を壺中の天地に引き篭り、とことん詩画の想などを練るのは隠者らしくて良い。

詩画作品の出来は別にしても、寒中を十分楽しめるだろう。

蒼古たる破壺を抱いて古の文人達と同じ夢を見るのは、現代人のスローライフの一段深い楽しみ方だと思う。


©️甲士三郎