鎌倉の隠者

日本画家、詩人、鎌倉の鬼門守護職、甲士三郎の隠者生活

290 雨情の吟行

2023-03-30 12:58:00 | 日記

花の盛りにも関わらず今週は生憎の雨続きで、いっその事雨を題にして吟行に出ようと思う。

BGMにブラームスのドイツレクイエムでも聴きながら花散り時の雨情に浸りたい。


我が庭を長く彩ってくれた種々の椿も終りに近く、最も遅咲きの乙女椿も雨中に散り始めた。

ーーーうす紅は紅より傷み易き色 雨降りがちな荒庭の花ーーー



庭も4月になれば椿桜に代わって山吹や藤が咲き出す。

その頃の庭を荒らす一番の懸念は筍で、あたり構わず出てあっという間に伸びるから油断出来ない。

食べるにも隠者は精々23本で飽きるのだ。


我家と違って丹念に手入れされているご近所の花の山。



春の明るさの中にも小雨に濡れて深みのある山の色合いだ。

この奥に住んでいた顔見知りの老歌人ももう亡くなり、風情のあった庵も壊されてしまった。

ーーー花の色芽吹の色を宿したる 雨粒の降る世隠れの谷戸ーーー


鎌倉宮の参道脇の小流れのある路地。

紫木蓮の花の終りの朽ち色は耽美頽春の趣きで隠者好みだ。



その鎌倉宮の前を北に行くと新体詩の大詩人蒲原有明の旧居がある。

有明も行く春を惜しみながら、この辺の路地を散歩していただろう。

ーーー花屑の七種十色散り敷きて 惜春の路地詩人の旧居ーーー


八幡宮を抜けて若宮大路に出る頃には夕暮れて、段葛の桜並木にも灯が点る。



10年ほど前に段葛の老木と石垣を撤去し今風の舗装路に変えてからしばらくは花見にも行かなかったが、そこそこ若木が育って来てあと10年もすればまあ見られるようになるだろう。

だが現代風のLEDの灯籠は色も形も全く頂けない。

それだけでも昔の篝火か提灯に戻せない物か。

ーーー降る雨も散り行く花も金に染め 篝火猛る春の名残にーーー


子供達学生達に取ってのこの3年の自粛閉塞生活は心から気の毒に思う。

せめて本来の世界は遥かに明るく自由で美しくあるべきだと言う事を伝えてやりたい。

鎌倉もようやく息苦しいマスクが取れて、街並みも人々も麗しき春の彩りを取り戻して欲しい。

ーーー時満ちぬ善男善女こぞり出よ 花散る大路巫女舞ふ大社ーーー


©️甲士三郎


289 耽美の荒庭

2023-03-23 13:08:00 | 日記

毎年花時は詩人画人にとっては嬉しくも忙しない時期で、花に鳥に詩書画に毎刻飛び回るような日々だ。

残念ながら今週後半は雨続きの予報で、せっかく咲き揃った染井吉野も山桜も長く保たないかも知れない。


花散らしの雨が降り出す前に荒庭の椿の傍らでガーデンティーにしよう。



(益子急須湯呑 昭和前期 四方盆 大正〜昭和初期)

椿は耽美派時代の古びた洋館の庭を思わせる。

19世紀ヨーロッパの庭園でも日本の椿を植えるのが大流行して、薔薇の花期前の庭の主役となっていた。

今は鎌倉文学館となっている旧前田侯爵邸の庭園で、椿や薔薇に囲まれ文芸論を交し合った鎌倉文士達の姿が春陽の中に眩しく浮かぶ。

荒れ果てた庭で椿の精と共に耽美に浸り、当時はまだ若かった文士達を偲ぼう。

ーーー落椿朽ちゆく庭で詩論かなーーー


今日の茶菓子はまたまたスーパーの饅頭だが、家人はこれで十分満足と言っている。

良い花良い書画を飾れば、何でも美味そうに思えて来るのだ。



(直筆句軸 高浜虚子 黒織部徳利 江戸時代 李朝台鉢)

「咲きみちてこぼるる花も無かりけり」高浜虚子

虚子の書ならこんなたわいない句でも立派な軸になってしまう。

きっと句の出来不出来よりも春を愛おしむ花鳥諷詠の暮しそのものが、昔の文人高士の理想とする境地なのだとも思う。

机上は祖師の句の内容に反して、花が盛大にこぼれるのを放ってある。

荒庭の椿がここにも色を添えてくれた。


彼岸会の牡丹餅は、最近我家に鎮座された弁財天に御供えしよう。



(古備前弁天像 幕末明治頃 青南京花入 鳳凰形手燭 古志野茶碗皿 江戸時代)

弁財天はヒンドゥー教の女神サラスバティーが長き変遷を経て我が国の七福神に収まった神で、江ノ島はその最古の3社に入るそうだ。

元は水の神でもあり明治の神仏分離令以前は市杵島姫命と同視されてもいた。

彼岸にお祀りするべき特定の神仏は居ないので、直接の関係は無いが鎌倉なら弁天様でも良いだろう。

木花咲耶姫は花鎮めにご登場頂くのでもうしばらくお待ちを。

燭台の鳳凰も春の霊鳥で、よく桐の花と共に描かれている。


ーーー花冷の山に三方塞がれて 鎌倉人は海を眩しむーーー

この後は生憎雨が続く予報なので、敢えて春雨の題を中心に吟行しようかと思っている。


©️甲士三郎


288 春日の写俳

2023-03-16 13:01:00 | 日記

今週は鎌倉も急に暖かくなり、種々の花が一気に咲き鳥達も朝の食餌に忙しんでいる。


こんな日は手軽に写俳(写真と俳句)でも楽しみながら、春陽の谷戸の散歩に出よう。

家を出た所で先ずはウォーミングアップの一句。

ーーー裏壁に桜の色の照り返しーーー



染井吉野や山桜はまだ先だが、彼岸桜はもう満開になりそうだ。

花の明るさにつられ桜の根本の蒲公英の蕾も膨らんで来て、我が谷戸は来週あたりから春の盛りとなるだろう。

昨年は麗らかな真に春らしい日は5〜6日しか無かったので、今年はそんな日和は1日も逃さずに心して味わいたい。


小鳥達も活発に飛び回り、様々な声色の囀りは雲上の奏楽天のようだ。

ーーー眩しさに見えぬ辺りで囀れりーーー



今週は毎日早起きして花に来る鳥の撮影をしているのだが、例によって病眼のためにピント合わせがままならない。

この写真はうまく撮れた方なのだ。

山影で遅咲きのこの梅も満開となり、目白や鶯が替わる代わるにやって来る良き撮影スポットだ。


もう少し行くと琴の師範の家があり数年前まではよく稽古の音が聴こえていたのが、最近はあまり聴こえなくなり心配している。

ーーー囀りの中に古曲の伝授かなーーー

この上もしも鳥の囀りまで無くなったとしたら、我が谷戸の春は如何に淋しくなるか想像も付かない。


散歩路の傍らに可憐な花が咲き競う様子は、その小世界に入り込めればまさに楽園だ。



ーーーお茶の時菫に光足りし時ーーー

古来種の菫草は西洋スミレよりはるかに小さく、足元をよく見ていないと踏んでしまいそうだ。

品の良い紫の可愛らしい花は路地のあちこちに咲き、我が荒庭の一隅にも咲いている。

菫や犬ふぐりは春光の集まる場所に咲くので、しばらくしゃがみ込んで居れば春陽の精達の騒めきにも観応出来るかも知れない。


家人に老舗の和菓子でも買って帰ろうと思ったが、お目当ての品は予約していないと午前中で売切れてしまう。

ーーー行く春や夢色和菓子売切れてーーー



(文机 江戸時代 菓子桶 江戸時代 急須茶杯 昭和前期 李朝徳利)

仕方なく買って来たスーパーの三色団子でも案外楽しめる。

古びた文机の飴色の艶に春の花や和菓子の淡い色彩が引き立って、その時節に適した器を使えるなら今のスーパーコンビニの菓子類は十分高級品だと思う。

ーーー卓上の杏散りだし月曜日ーーー


写俳は世界の重層を表現するのに適し、スマホやPCで俳画よりずっと短時間で出来る所が良い。

実は俳画で最も難しいのは俳句でも画でも無く、書で失敗する事が多いのだ。

まあ何をするにも名作傑作と意識し過ぎなければ、春のひと時を心豊かに過ごす事が出来るだろう。


©️甲士三郎


287 花心旅心

2023-03-09 12:57:00 | 日記

御近所の庭に種々咲きだした花を見に散歩のコースも日々変わり、仲春啓蟄は嬉しくも気忙しい季節だ。

日本古来からある花にはそれぞれ古人達の想いが籠っていて、それらを描いた数々の名作も思い起こされる。


我が門前の土手に菜の花が咲くと、詩画の取材で巡った大和の路傍によく咲いていたのを思い出す。



(大和 初版 前川佐美雄 銀製喫煙具 大正時代)

「春がすみいよよ濃くなる眞晝間(まひるま)の なにも見えねば大和と思へ」前川佐美雄。

この歌の大和は今の観光地の奈良大和路ではなく、スピリチュアルな古代大和の事を言っている。

私も若い頃に春は毎年のように奈良方面に通っていて、今思えばこの歌に詠まれたような大和の聖性を感じ取ろうと彷徨っていたのだろう。

戦前までの日本の風土には神仏も精霊も当たり前に存在していて、大和国原はそれが最も濃く感じられる場所だった。

敗戦後の日本人は国家神道と共に土着の自然信仰や古来からの風習をまとめて否定した挙句、父祖重代の己が魂までも失ったのだから愚かと言うほか無い。


大和桜井生まれの思想家、保田與重郎の生涯ただ一冊の歌集も良い。



(木炭木母 初版 保田與重郎 黄瀬戸徳利杯 江戸時代)

「三輪山のしずめの池の中島の 日はうららかにいつきしま比女(ひめ)」保田與重郎。

いつきしま比女(市杵嶋姫命)は水の女神で、如何にも日本浪漫派の旗手らしい美しくファンタジックな歌だ。

我家にはこの歌の掛軸もあり(前出)、彼の書も中々良くて花鎮めの時には必ず飾っている。

私も三輪山を山辺の道の傍らの小さな桃畑から写生した日などは、聖域の光に包まれて至福のひと時を過ごせた。

また保田與重郎は万葉集研究の著書もあるほど古歌に傾倒していたが、文庫版の万葉集は隠者も旅のお供に良く持って行った。

「春の苑紅にほふ桃の花 下照る道に出で立つ乙女」大伴家持。

この歌の乙女とはギリシャのニンフやミューズと同類の精霊なのだが、その辺は20世紀の物質文明に染まった老人達より今のアニメやゲームでファンタジーに親しんだ若者の方が感受し易いだろう。


最後は斑鳩に行こう。



(直筆色紙 鹿鳴集 初版 会津八一 古備前蕪徳利 桃山時代)

「厩戸の皇子の祭りも近付きぬ 松緑なる斑鳩の里」会津八一(原作は全てかな書き)

この歌が載っている八一の「鹿鳴集」には数多くの奈良大和路の秀歌が並んでいる。

聖徳太子の命日は旧暦の222日で、法隆寺の周りの長閑な田園は椿や桃の花盛りの頃だ。

私もたびたびその時期に斑鳩の里を訪れ、菜花萌える畦に座って遠景の五重塔や法起寺の塔を色々な方角からスケッチしたものだ。

寺の中は観光客で混雑していても少し離れた田畑には誰も来ず、春の陽の降り注ぐ麗らかな田園に私と花の精がいるだけの夢のような日々だった。


今は旅にも出られず鎌倉の幽居に籠るばかりの、老いたる旅人の一句も末尾に添えておこう。

ーーー常昼の菜の花路を終の旅ーーー


©️甲士三郎


286 文人達の春蘭

2023-03-02 11:29:00 | 日記

ーーー古き絵に桃の節句の灯が赤くーーー

文人画では春の蘭、夏の竹、秋の菊、冬の寒梅を四君子と呼んで尊んだ。

それぞれの描き方も確立されていて、その筆法は後世の水墨画の基本となっている。

私も一通りは描けるがかなり精神主義的な画題なので、今の一般大衆向けには全く需要は無いだろう。


自分ではあまり描かないものの四君子の古画を観るのは好きで、毎年中春頃に掛ける軸で隠者のお気に入りはこの茫洋とした池大雅の蘭だ。



(春蘭図 池大雅 江戸時代)

江戸時代の池大雅から田能村竹田の頃が我が国の文人画の最盛期だった。

当時のほとんどの画家が墨蘭を描いていて一見みな同じように見えるが、大雅のバランス感覚の良さは頭抜けている。

また片暈しを使った墨の濃淡も気が利いていて、花や葉の瑞々しい生命感が漲っている。

胸中にまで春風が通っているような筆の遅速強弱の加減が見事だ。

ただ表具を直す時にだいぶ傷みがあったのか、画の下部が少し切り詰められているのが残念。

BGMは意外な事にストラビンスキーの「春の祭典」が似合う。

東洋の春蘭と西洋の春の妖精のイメージが相通じるのだろう。


こちらは以前にも紹介した貫名菘翁の、また別の蘭画賛一幅。



(蘭石画賛 貫名菘翁 江戸時代 京唐津茶碗 黄瀬戸向付 江戸時代)

大雅よりきちっとしていて、儒学者らしい真面目な画風だ。

大地の気を表す奇石に蘭を合わせる構図も多くの文人画家に好まれた。

現代では大規模な蘭展も開かれ世界中の絢爛たる品種が並ぶ中、昔ながらの清楚な君子蘭の愛好家は減ってしまい、幽香と謳われたこの蘭は古詩や画の中でだけ今も香気を放っている。

文人達が君子蘭に引き寄せられたのはただの美しさでは無く、地味ながら気品に満ちた清雅な花のありようだろう。

彼等にとっては現実界の華麗な花より、己が夢幻界に咲く墨一色の幽花こそが至高だったのだ。


さて今週は新暦では五節句の上巳(桃の節句)なのだが、温暖な鎌倉でも自然界の桃が咲くには到底早過ぎる。



(古越前壺 江戸時代 黄瀬戸茶碗 江戸時代 鎌倉彫菓子皿 大正時代)

花屋で売っていたハウス栽培の桃が、寒さで店頭では咲かず安売りになっていた。

暖房の部屋に入れ加湿器も目一杯使って、ここ数日の暖かさで節句には咲いてくれるだろう。

取り敢えず咲きかけの桃に菜の花を添え春色の菓子も加えて誤魔化そう。

古来からの季節の行事まで新暦令でひと月以上も早めてしまった薩長官僚の愚かさを、幕府の直参旗本だった我家としては五節句が来るたびに罵るのだ。


これから仲春を迎え花や鳥の愛好家は野に山に心躍る季節だ。

私も旅には出られぬものの、鎌倉は身近な自然でも十分楽しめるのがありがたい。


©️甲士三郎