【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 6月13日(土)より転載】
【革心39】
梅園新村記念館を参観しながら、山本伸一は、峯子に言った。
「周恩来総理は、本当に偉大な指導者であられた。今回は、北京で奥様の頴超先生とお会いできるんだね。楽しみだな。
先生は、周総理と共に、新中国建設に人生を捧げてこられた。“人民の母”として誰からも慕われ、愛され、今も、周総理の遺志を受け継ぎ、人民の幸福のために、奮闘し続けておられる……」
彼女の生涯は、まさに、疾風怒濤であった。艱難辛苦であった。
--頴超は、一九〇四年(明治三十七年)に中国の広西省南寧で生まれた。父親の庭忠は地方の役人をしていたが、新疆へ流罪され、彼女が幼少期に他界。中国医学を学んだ母親の楊振徳が、広州、上海、天津などを転々としながら、女手一つで娘を育てた。
成績優秀な頴超は、わずか十二歳で、天津の直隷第一女子師範学校の本科に進学した。そして、一九年(大正八年)、十五歳の時に、あの「五・四運動」に参加したのである。
それは、山東省でのドイツの権益などが、中国に返還されるのではなく、日本に譲渡されることに対する、日本をはじめ西欧列強、北京政府への、学生たちの怒りのデモから始まった反帝・反封建運動である。
頴超は、天津にあって、北京の学生たちへの支援を呼びかけ、天津女界愛国同志会に加わり、講演隊長を務めた。中国人民を差別し、虐げる、列強の理不尽さを見過ごすわけにはいかなかったのである。
このころ、日本留学から帰国した周恩来と出会う。彼は男子学生の天津学生連合会に入り、運動に情熱を注いでいたのだ。
そして、天津学生連合会と天津女界愛国同志会が合流し、中核メンバーで結成されたのが「覚悟社」であった。ここでいう「覚悟」とは「悟って、覚醒する」の意味である。
若き日をいかに生きるかが、一生を決定づけるーー人びとの幸福の実現という、崇高な目的に生きる時、青春は最も高貴な光を放つ。
■ 小説『新・人間革命』の主な参考文献
西園寺一晃著『頴超』潮出版社
『人民の母ーー頴超』高橋強・水上弘子・周恩来 頴超研究会編著、白帝社
ハン・スーイン著『長兄ーー周恩来の生涯』川口洋・美樹子訳、新潮社
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