和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

昼寝/今日の俳句 ≪第.1851号≫

2015年08月01日 06時40分32秒 | 今日の俳句
昼寝妻さめて厨へ辿るなり
        皆吉爽雨



鍵かけて留守をよそほふ昼寝かな
        八染藍子


全身を放り出したり昼寝の子
        津田このみ


横文字の如き午睡のお姉さん
        宇多喜代子


日がさして昼寝の妻の土踏まず
        坪内稔典

 

※ 昼寝・午睡・三尺寝・昼寝起・昼寝覚
 昼間の睡眠のことで、酷暑の折は疲労が激しく、睡眠不足になるので、午睡が推奨される。職人や大工などが、仕事場で短時間寝るのを三尺寝というが、それは足場や材木の上など三尺にも足らぬ狭い場所で寝るからとも、日陰が三尺ほど動く間だけ昼寝が許されるからともいう。

【「俳句歳時記・第3巻/角川書店」より転載】





     ※☆*わが友に贈る*☆※


  弘教拡大に挑む

  創価班・牙城会の

  大学校生の友よ!

  誓願の道を勇敢に進め!

  皆の勝利を待っている!


        2015年8月1日





     ※☆*寸 鉄*☆※


さあ、新生の8月!友情結ぶ好機(チャンス)。新しき友、旧き友と心通わす語らいを

        ◇

朝の勝利が人生の勝利に通ず。暑い季節こそリズム正しく。爽快な勤行で

        ◇

日本女性の平均寿命が3年連続世界一。男性3位。多宝の友の使命は更に大

        ◇

被爆者の74%、今でも当時を思い出すー調査。廃絶への熱願を断じて実現

        ◇

夏の省エネ総点検の日。まず足元から意識改革。地道な努力で地球を守れ






     ※☆*わが友に贈る*☆※


きょうから葉月。終戦70年の8月が巡りきた。昭和20年は、当たり前だが「戦前」の終わりであり「戦後」の始まりである



戦後70年の歩みには光も影もあった。その光を見ず、返す刀で、戦前をことさらに美化する声が、次第に大きくなっているようだ。書店に並ぶ本の表紙を観察するだけで、その傾向はうかがえる



創価学会にとって昭和20年は、戸田第2代会長が出獄し、一人、組織の再建に歩み始めた年である。平和と民衆の幸福を打ち立てる闘争は、池田第3代会長に引き継がれ、今日の世界的発展を見るに至った。それを可能にした内発的な条件は、地涌の菩薩を呼び現した、三代の会長の「広宣流布の信心」にある



一方、外的条件は、戦前の体制の解体がもたらした自由、とりわけ「信教の自由」であった。学会の「精神の正史」である小説『人間革命』の第1巻は「真に力のある宗教は、信教の自由を欲し、力のない宗教は、権力と結託しようとする」と国家神道を批判し、連合国軍総司令部による民主化を「梵天、帝釈の御計らい」と記している



社会の変化に応じて、広布の運動の在り方は変わるべきだ。一方で、師弟の精神、平和と自由の砦であり続ける誓いだけは変わってはならない。戦後70年の今、そう思う。     (飛)


【聖教新聞:2015年(平成27年)8月1日(土)付】






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     日蓮大聖人の仏法

【「(教学入門/創価学会教学部編)聖教新聞社刊」より抜粋】

    --御生涯の教えーー

[1] 日蓮大聖人の御生涯


(4)竜の口の法難と発迹顕本

(前号より)

(5)佐渡流罪

 竜の口に法難後のしばらくの間、幕府を大聖人への処遇を決められず、約1ヵ月間、大聖人は相模国の依智(神奈川県厚木市北部)にある本間六郎左衛門重連(佐渡国の守護代)の館に留め置かれました。その間、放火や殺人の罪が門下に着せられるなど、さまざまな弾圧が画策されました。
 結局、佐渡流罪と決まり、大聖人は、文永8年(1271年)10月10日に依智を出発し11月1日に佐渡の塚原の墓地にある荒れ果てた三昧堂(葬送用の堂)に入りました。大聖人は、厳寒の気候に加えて、衣類や食料も乏しい中、佐渡の念仏者などから命を狙われるという厳しい状況に置かれたのです。
 弾圧は、鎌倉の門下にも及び、土牢に入れられたり、追放、所領没収などの処分を受けたりします。そして、多数の門下が、臆病と保身から、大聖人の仏法に疑いを起こして退転してしまいました。
 翌、文永9年(1272年)1月16日、17日には、佐渡だけでなく北陸・信越などから諸宗の僧ら数百人が集まり、大聖人を亡きものにしようとしました。本間重連に制止され、法論で対決することになりました。大聖人は各宗の邪義をことごとく論破されました(塚原問答)。
 2月には北条一門の内乱が起こり、鎌倉と京都で戦闘が行われました。(二月騒動、北条時輔の乱)。大聖人が竜の口の法難の際に予言された自界叛逆難が、わずか150日後に現実になったのです。
 同年初夏、大聖人の配所は、塚原から一谷に移されましたが、念仏者などに命を狙われるという危険な状況に変わりはありませんでした。
 この佐渡流罪の間、日興聖人は、大聖人に常随給仕して苦難をともにされました。また、佐渡の地でも、阿仏房・千日尼夫妻をはじめ、大聖人に帰依する人々が現れました。
 大聖人は、この佐渡の地で多くの重要な御書を著されていますが、とりわけ重要な著作が「開目抄」と「観心本尊抄」です。(次号へ続く)

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