和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

小説「新・人間革命」

2015年08月28日 13時26分59秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 8月28日(金)より転載】

【勝利島33】

 広布の潮は、昭和三十年代に入った一九五五年ごろから、各島々に、ひたひたと押し寄せ、年ごとに水かさを増していった。
 奄美群島では、奄美大島、徳之島はもとより、喜界島、加計呂麻島、与路島、請島、沖永良部島、与論島などにも、次々に同志が誕生し、学会の組織が整備されていった。
 山本伸一が第三代会長に就任した翌年の六一年(昭和三十六年)には、奄美に支部が結成される。
 奄美大島の南には加計呂麻島があり、さらに、その南方に与路島や請島がある。
 草創期、与路島の同志は、加計呂麻島や請島へは、手漕ぎ舟で弘教に通った。また、奄美大島の古仁屋で開かれる会合にも、手漕ぎ舟に乗って出かけた。四、五人が同乗し、数時間がかりで海を渡っていくのだ。
 皆、雨合羽を着て乗り込むが、波が高ければ、水しぶきで服は水浸しになる。舟を漕ぐ腕は痛み、体は疲れ果てる。しかし、「ひと漕ぎするたびに宿命転換が近づく」と、励まし合い、荒波を越えていった。
 自分たちを運ぶために、自分たちで漕ぐことから、“お客なし舟”と言って笑い合った。
 加計呂麻島の同志も意気軒昂であった。一日に五キロ、十キロと島内を歩いて友人の家を訪ね、仏法対話に励んだ。
 奄美群島の有人島の五つに、猛毒をもったハブが生息し、加計呂麻島もその一つであった。ハブは夜行性で、夜は危険度を増す。草むらなどでは、いつ襲ってくるかわからない。
 夜、学会活動に出かける時には、松明や石油ランプで足元を照らしながら、片手に長い柄のついた鎌や棒を持って、道の草を払いながら進むのである。
 雨の降る日、座談会の帰りに林道を歩いていると、傘の上に、ドサッと何かが落ちてきた。ハブであった。また、雨宿りをした小屋のムシロの下に、ハブがいたこともあった。
 使命に目覚めた民衆には、あらゆる障害をはね返す力がある。友の幸せを願う民衆の不屈の行動で、日蓮仏法は広がっていったのだ。


     



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