◇桜の実/今日の俳句◇
◇※第1285号※◇
2013年(平成25年)5月16日(木)
■
※今日の記念日※
※5月16日※
■ 旅の日
日本旅のペンクラブ(旅ペン)が1988年に制定。
元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅へ旅立った。
せわしない現代生活の中で「旅の心」を大切にし、旅のあり方を考え直す日。
【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】
■
■※今日の俳句※■
桜の実紅経てむらさき吾子生る
中村草田男
午後よりの雲うごかざり桜の実
杉山岳陽
老桜あまた実を生みやすらへり
小熊一人
【季語の解説】
※ 桜の実→実桜・桜実となる。
花が終わると桜は願みられないが、よく見ると茂った葉陰に青い実ができ、育つに従って薄紅に変わり、熟すと黒褐色になる。大きさは小豆粒ぐらい。
サクランボとちがい、酸っぱくて渋いのでおいしくはないが、子供たちは木に登って食べたり、果汁で紙に絵を描いて遊ぶ。
一般に実桜と呼ばれているのは中国渡来のシナ実桜「唐実桜」で、これは粒が大きい。
地味な桜の実に華麗な花を偲ぶのも風情のうちであろう。
【「現代俳句歳時記(夏)/角川春樹編」(角川春樹事務所)より転載】
■※中村草田男 (なかむらくさたお )※■
「1901-1983(明治34年‐昭和58年)」
清国(現・中国)福建省廈門にて清国領事・修の長男として生まれる。1904年(明治37年)数え年4歳の時、母とともに中村家の本籍地・愛媛県伊予郡松前町に帰国。
2年後松山市に転居。小学校時代の大半を東京で過ごし、赤坂区青南尋常小学校(のち港区立青南小学校)に通学する。
中学時代は再び松山に戻り、松山中学、松山高等学校を経て、1925年(大正14年)東京帝国大学文学部独文科に入学。しかし中途で国文科に転じた。
1929年(昭和4年)高浜虚子に師事し俳句を学ぶ。また東大俳句会に入門。水原秋桜子の勧めで『ホトトギス』に投句。
大学時代に久しぶりに母校の青南小学校を訪ねた。この時の感慨を詠んだ「降る雪や明治は遠くなりにけり」は、現在、句碑として当小学校内に建っている。
1933年(昭和8年)大学を卒業し、成蹊学園に就職。現代俳句の中心的存在として、1946年(昭和21年)月刊俳誌『萬緑(ばんりょく)』を主宰した。
1963年と1975年には、それぞれ同人や会員の作品を収録した『萬緑合同句集』『萬緑合同句集2』が発行されている。
1960年(昭和35年)に現代俳句協会幹事長となる。翌1961年(昭和36年)現代俳句協会賞を巡って協会内で分裂し、俳人協会を設立して初代会長に就任した。
成蹊高校の教諭の後、成蹊大学政経学部教授として通算33年間教鞭を執り1967年(昭和42年)に定年で退職。1978年(昭和53年)、『風船の使者』で芸術選奨文部大臣賞受賞。
1983年(昭和58年)8月5日、急性肺炎のため82歳で死去。死の前日洗礼を受け、洗礼名をヨハネ・マリア・ヴィアンネ・中村清一郎と名乗る。墓は東京都あきる野市の五日市霊園にある。
娘はお茶の水女子大学教授(フランス哲学)の中村弓子。孫は遠山一行の長男公一と結婚した。
【「ウィキペディア・フリー百科事典」より転載】
■
※わが友に贈る/寸鉄※
【「聖教新聞」2013年(平成25年)5月16日(木)より転載】
http://www.seikyoonline.jp/
※わが友に贈る※
昼夜の温度差など
季節の変わり目での
体調管理に注意!
油断・過信を排し
聡明で健康な生活を!
◇5月16日◇
■
◇※寸 鉄※◇
学会員の強き平和連帯は会長(SGI)の指導の賜ー市長(アルゼンチン)。師と共に!これ団結の要
◇
東京・杉並の「女性の日」。婦女一体で勇気の対話。地域に幸福の花園は爛漫
◇
我らの誇りは世界最高の教学をもつことー恩師。戦いの中で御書を拝せ!
◇
「わざはひも転じて幸(さいわい)となる」御聖訓。絶対勝利の妙法だ。信深く、祈り強く
◇
5月は自転車月間。車道の左側通行を。傘や携帯使用も厳禁。規則を守れ
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「和井弘希の文芸政談」に掲載した俳句集
http://u-736632kazui.hatenadiary.com/
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◇※第1285号※◇
2013年(平成25年)5月16日(木)
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※今日の記念日※
※5月16日※
■ 旅の日
日本旅のペンクラブ(旅ペン)が1988年に制定。
元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅へ旅立った。
せわしない現代生活の中で「旅の心」を大切にし、旅のあり方を考え直す日。
【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】
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■※今日の俳句※■
桜の実紅経てむらさき吾子生る
中村草田男
午後よりの雲うごかざり桜の実
杉山岳陽
老桜あまた実を生みやすらへり
小熊一人
【季語の解説】
※ 桜の実→実桜・桜実となる。
花が終わると桜は願みられないが、よく見ると茂った葉陰に青い実ができ、育つに従って薄紅に変わり、熟すと黒褐色になる。大きさは小豆粒ぐらい。
サクランボとちがい、酸っぱくて渋いのでおいしくはないが、子供たちは木に登って食べたり、果汁で紙に絵を描いて遊ぶ。
一般に実桜と呼ばれているのは中国渡来のシナ実桜「唐実桜」で、これは粒が大きい。
地味な桜の実に華麗な花を偲ぶのも風情のうちであろう。
【「現代俳句歳時記(夏)/角川春樹編」(角川春樹事務所)より転載】
■※中村草田男 (なかむらくさたお )※■
「1901-1983(明治34年‐昭和58年)」
清国(現・中国)福建省廈門にて清国領事・修の長男として生まれる。1904年(明治37年)数え年4歳の時、母とともに中村家の本籍地・愛媛県伊予郡松前町に帰国。
2年後松山市に転居。小学校時代の大半を東京で過ごし、赤坂区青南尋常小学校(のち港区立青南小学校)に通学する。
中学時代は再び松山に戻り、松山中学、松山高等学校を経て、1925年(大正14年)東京帝国大学文学部独文科に入学。しかし中途で国文科に転じた。
1929年(昭和4年)高浜虚子に師事し俳句を学ぶ。また東大俳句会に入門。水原秋桜子の勧めで『ホトトギス』に投句。
大学時代に久しぶりに母校の青南小学校を訪ねた。この時の感慨を詠んだ「降る雪や明治は遠くなりにけり」は、現在、句碑として当小学校内に建っている。
1933年(昭和8年)大学を卒業し、成蹊学園に就職。現代俳句の中心的存在として、1946年(昭和21年)月刊俳誌『萬緑(ばんりょく)』を主宰した。
1963年と1975年には、それぞれ同人や会員の作品を収録した『萬緑合同句集』『萬緑合同句集2』が発行されている。
1960年(昭和35年)に現代俳句協会幹事長となる。翌1961年(昭和36年)現代俳句協会賞を巡って協会内で分裂し、俳人協会を設立して初代会長に就任した。
成蹊高校の教諭の後、成蹊大学政経学部教授として通算33年間教鞭を執り1967年(昭和42年)に定年で退職。1978年(昭和53年)、『風船の使者』で芸術選奨文部大臣賞受賞。
1983年(昭和58年)8月5日、急性肺炎のため82歳で死去。死の前日洗礼を受け、洗礼名をヨハネ・マリア・ヴィアンネ・中村清一郎と名乗る。墓は東京都あきる野市の五日市霊園にある。
娘はお茶の水女子大学教授(フランス哲学)の中村弓子。孫は遠山一行の長男公一と結婚した。
【「ウィキペディア・フリー百科事典」より転載】
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※わが友に贈る/寸鉄※
【「聖教新聞」2013年(平成25年)5月16日(木)より転載】
http://www.seikyoonline.jp/
※わが友に贈る※
昼夜の温度差など
季節の変わり目での
体調管理に注意!
油断・過信を排し
聡明で健康な生活を!
◇5月16日◇
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◇※寸 鉄※◇
学会員の強き平和連帯は会長(SGI)の指導の賜ー市長(アルゼンチン)。師と共に!これ団結の要
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東京・杉並の「女性の日」。婦女一体で勇気の対話。地域に幸福の花園は爛漫
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我らの誇りは世界最高の教学をもつことー恩師。戦いの中で御書を拝せ!
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「わざはひも転じて幸(さいわい)となる」御聖訓。絶対勝利の妙法だ。信深く、祈り強く
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5月は自転車月間。車道の左側通行を。傘や携帯使用も厳禁。規則を守れ
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「和井弘希の文芸政談」に掲載した俳句集
http://u-736632kazui.hatenadiary.com/
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