和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

革心30/小説「新・人間革命」

2015年06月03日 06時47分50秒 | 今日の俳句
【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 6月3日(水)より転載】

【革心30】

 蘇州に向かう車窓には、のどかな田園風景が果てしなく広がっていた。二期作目なのか、緑の稲が風にそよいでいた。時折、水牛の背に乗った子どもたちの姿も見える。

 縦横に走る水路に、白い帆をかけた小さな舟が、ゆったりと波を立てていた。

 山本伸一たち訪中団一行が、“水の都”と呼ばれる蘇州に着いたのは、午後三時過ぎであった。上海から一時間半ほどの旅である。

 蘇州は、“庭園の都”でもある。「江南の庭園は天下一、蘇州の庭園は江南一」といわれ、かつては二百余りの庭園があったという。

 一行は、中国四大名園の一つとされる拙政園に案内された。この庭園は、十六世紀初め、明の時代に造られたもので、五万平方メートルを超える敷地に大小の池や水路があり、築山や回廊、東屋が、見事に配置されていた。一幅の名画を眺めるようであった。

 さらに、唐時代の詩人・張継が詠んだ詩「楓橋夜泊」で有名な寒山寺を見学。夜には、真心こもる歓迎宴が行われた。

 今回の訪問では、この蘇州見学をはじめ、随所に中国側の配慮が感じられた。

 たとえば、このころ中国は、まだ自動車の数は少なかった。人びとの足は、たいてい自転車であった。そうしたなかで、上海でも、蘇州でも、一行の移動はバスではなく、メンバー一人ないし二人に、乗用車一台が提供されたのである。

 訪中団の一人が、そのことを話題にした時、中日友好協会の孫平化秘書長は、力を込めて語った。

 「それは、山本先生をはじめ、創価学会の皆さんが、どんな思いをされて、中日友好の流れを開かれてきたか、また、それが歴史的にいかに偉大なことであったかを、私たちはよく存じ上げているからです。山本先生がおられたからこそ、中日国交正常化があり、平和友好条約の締結にいたった。その信義と恩義とを、私たちは永遠に忘れません」

 友好と平和の花園をつくる作業は、「信義」を貫き、信頼の土壌を耕すことから始まる。



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