忘れては いけないので
ここの 載せておきます。
その1
コウノトリ(光之十理)って幸の鳥ではなかったの?
神の子を運ぶ働きです。
>光が十里でしたか~
十の理です。
籠の中の鳥(十理)は~いついつ出やる~♪
この十と云うのは、神の選ばれた十人の師の理(ことわり)
です。
(孔子、釈迦、キリスト、マホメット、中山みき、広池千九郎、
出口なお、出口王仁三郎、自観明主、宝観主光)
>いろんなところに 光をもって行ってくれるんですね。
教育勅語に「博愛衆に及ぼす」と示されています。
霊界にも、愛(=光)を届けねばなりません。
>豊岡の神っていうのは?
こうのとりは 豊岡の神?
豊岡は、別名但馬(多島)と言います。
つまり、地球の雛形(霊成型)です。
豊岡の神というのは、豊かな岡に居る神人(かみ)と云う事で、
体ある多神を示しています。
>確かに もっと頑張れば~豊岡は 変っていくかも?
豊岡が核になって、壮大な話になりますが、グルーバルにその在り
方を写していく。
つまり、コウノトリの野生化運動と同じで、人の共生がテーマです。
>首を長くして、待ちに待っていた弥勒の世の到来って
これから?
もう、弥勒下生の時代は到来しています。
しかし、人心の荒廃が凄まじく、その事に気づかないだけです。
ですから、宗教が終焉してしく時代です。
仏教的に云えば、法滅尽の末法の世です。
聖書で云えば、「終わりなり始めなり」で、人世は終わり、神人
世(弥勒の世)が始まっていきます。
今は、その時代の大転換期です。
人か神人へのターニングポイントです。
>いい行いをしていかなくっちゃね
感謝です。
神も良し、先祖も良し、人も良しですねぇ。
人間だけの範囲の話は、道徳・倫理程度のいい行いでしかあり
ません
その2
>コウノトリさん
私は凄いところに住んでいるんだとわかりました。
「裏が表に現れて」と大本のお筆先にありますが、裏と云うのは
これまで陽の当らなかった山陰地方です。
表は、山陽です。
裏は精神界、霊(みたま)の世界です。
表は物質界、体的な世界です。
御伽噺の花咲爺さんに、「裏の畠でポチが鳴く、ここ掘れわんわん」
と示されています。
裏の畠は、霊(みたま)の世界です。
ポチは「ヽ」です。止めの点です。マルテンの「テン」(十)
です。ここ掘れとは、個々の身魂の世界を掘れとの諭しです。
そこに本当の宝(他から)が埋まっています。
>徳育にぴったりの内容でした。
知育・徳育・体躯の三位一体が、ベストです。
その3
裏の字の中に、表と云う字が含まれています。
人世は、まだ恨めしやで、名・位・寿・冨への執着がありました。
幽霊は、言う霊です。
神人世は、裏メシアですから、隠されていたメシアの働きを世人
はしなくてはなりません。その為には、人から神人(かみ)へと
死なずして甦らねばなりません。
宝は他から、つまり自分以外の神・先祖の処から与えられる。
命と身体は、天与のものとして神・先祖から貸し与えられています。
ですから、天理教では「貸しもの・借りものの理」と言っています。
命も身体も自分の好きな様に使うことは、許されません。
にんげんは しにゆくなどといふけれど
しにゆくやない かりものかやす
かやすのは みのうちほこり つもるゆゑ
みのうちかみが しりぞきなさる
天理 おふでさき
丑は憂しです。
牛に引かれて善光寺と言います。つまり、憂し事があって信仰に
入ってきたのが、これまでの信仰形態です。これが、身欲信仰で
す。
神人世は、感謝から信仰(神交・光)に入るのでなければ、祀り
(真釣り)合いになりません。
平成21年は、王(二十)+ヽ(一)の21です。
つまり、主と云う字が二十一です。
主の命に従っていくかどうか、根(子)の御用は丑寅(艮=うし
とら)から・・・・憂しき事を取り去っていく端緒の年です。
豊岡は、但馬牛で有名です。つまり、粘り(根張り)強さが持ち
味です。