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スーパー夏休み

いまやこのブログにとっては珍しいことではなくなっておりますが、長らくの更新お休みをいただいております。


トークライブではお話しましたが、いつも「僕たちはね、死なないんですよ。だって生まれていないんですから」なんてことを宣っている僕がですね、夏休みの出だしで、若干死にかけまして(笑)。

「あー、海の事故って、こうやって起きるんだな」ってことを、身をもって体験いたしました。

いやまぁホント、人間、死にかけると、「生きる」ってことのコントラストが、グンッと上がりますね。

それと、昨年は義母の他界に伴って、いろいろと子供たちに我慢をさせてしまっていたり、普段はなにかと土日に家を空けることが多いってこともあり、「夏休みの時ぐらいは一緒に」ということで弾けまくり、ただいまトコトン夏休み中です。


夏休みはいいのですけれど、トークライブのお知らせなんかもすっかりお休みしてしまっていたことに気づきまして、ただいま慌てて更新しております。(汗)

今月の平日のお話会「月イチ」は、初めて浜松にお伺いする予定です。

初めましての方も多いだろうということで、この10年ほどの集大成的なお話をしてみたいと思っております。

また、浜松の他、今月は京都、東京での開催を予定しております。

はじめましての方も、お一人様も、はたまたリピーターの方々も、どうぞよろしくお願いいたします。



平日のお話会「月イチ☆」「でら☆月イチ」「月イチ☆WEST」

【京都】8月20日(木)19:30〜21:30(19:00開場)ハートピア京都 第5会議室 [詳細・お申し込み]

【浜松】8月21日(金)19:30〜21:30(19:00開場)浜松市勤労会館 23会議室[詳細・お申し込み]

【東京】8月31日(月)19:30〜21:30(19:00開場)三鷹産業プラザ 701会議室 [詳細・お申し込み]


※パソコンや携帯電話からのお申し込みが面倒、わからない、という方には、ファミリーマートさんの情報端末「ファミポート」でのお手続きをオススメしております。
 ご利用方法については【コチラ】をご参照ください。


黒澤一樹(雲 黒斎)ソロトークライブ in 福岡

いつもお世話になっております、Be Her Nowの常冨さんから、久しぶりに博多にお招きいただきました。

今回は、最近のお話会で好評をいただいております、「五蘊HOUSE」や「悟りの疑似体験(ああ、そういうことか!)」などのコンテンツを引っさげてお伺いする予定です。

お時間に余裕がありましたら、ぜひ遊びにきてください。

◎9月6日(日)14:00〜 福岡国際会議場 504+505会議室 [詳細・お申し込み]



←更新のないときや、こういったお知らせだけの時でも押してくれるあなたが大好きです。
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お詫びいろいろ

数日間自宅から離れ、手元にパソコンがない生活を送っておりました。

そんなときに限って、ツイッターのアカウントが乗っ取られ、大量のスパムが送られてしまうだなんて!

先日ようやくアカウントパスワードもリセットでき、自分で使えるようになりました。

該当の皆様には、大変ご迷惑をお掛けいたしました。

いや、僕もこれまで何度か同様のスパムが送られてくることが度々あったのですが、まさか自分のアカウントが乗っ取られてしまうとは思いもよらず。

普段からレイバンのメガネを愛用しているだけに、余計ビックリです。

とにもかくにも、改めてお詫び申し上げます。


また、本日開催の平日のお話会「月イチ☆WEST(兵庫)」についても、チケットに不備がございました。

本来は「19:30開演」なのですが、販売ページおよびチケットの印字に「21:30開演」となっているものがあったようです。

今晩は予定通り、「19:30〜21:30(19:00開場)」で開催いたします。

「21:30開演」と記載されたチケットにおきましても、19:30開演としてご利用いただけますようお願いいたします。

※万が一「21:30開演」で参加を予定していた方がおられましたら、返金もしくは次回以降への流用とさせていただきますのでご連絡ください。

本日はまだ空席がございますので、当日会場受付、および日付違いのチケットの流用にも対応いたします。

詳細は、【コチラ】をご確認ください。


それと、ですね。

先日のプレゼント企画の件。

賞品の書籍につきましては、すでに発送させていただいたのですが、Tシャツの方が一度ユニクロの審査に引っかかり、できあがりに時間がかかってしまいました。

先日無事審査がおり、完成品が僕の手元にとどきましたので、本日発送させていただきます。

到着まで、いましばらくお待ちください。


また、合わせまして。

先日無事、販売審査が通り、インターネット通販(ユニクロ UTme!マーケット)にてご購入いただける運びとなりました。



こちらも合わせて、よろしくお願いいたします!



というわけで、今日はこれから神戸に向けて出発。

参加を予定されています皆様、重ねまして、本日は19:30の開演でございます。

よろしくお願いいたします。



【トークライブインフォメーション】

明日以降の、平日のお話会「月イチ☆」「でら☆月イチ」

今月は「スピリチュアルって何ですか?(毒舌編)」をテーマにお送りする予定です。

【名古屋】7月28日(火)19:30〜21:30(19:00開場)ウインクあいち 1207会議室 [詳細・お申し込み]

【東京】7月31日(金)19:30〜21:30(19:00開場)三鷹産業プラザ 701会議室 [詳細・お申し込み]【完売御礼】


※パソコンや携帯電話からのお申し込みが面倒、わからない、という方には、ファミリーマートさんの情報端末「ファミポート」でのお手続きをオススメしております。
 ご利用方法については【コチラ】をご参照ください。


来月(8月)の月イチは、

8月20日(木)京都、21日(金)浜松、31日(月)東京、を予定しております。

こちらも、準備が整い次第、改めて告知いたします。


黒澤一樹(雲 黒斎)ソロトークライブ in 福岡

いつもお世話になっております、Be Her Nowの常冨さんから、久しぶりに博多にお招きいただきました。

今回は、最近のお話会で好評をいただいております、「五蘊HOUSE」や「悟りの疑似体験(ああ、そういうことか!)」などのコンテンツを引っさげてお伺いする予定です。

お時間に余裕がありましたら、ぜひ遊びにきてください。

◎9月6日(日)14:00〜 福岡国際会議場 504+505会議室 [詳細・お申し込み]



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原因と結果

我が家の子供たちも、いよいよ夏休みに突入し、また生活リズムが変わりつつあります。

一ヶ月以上も続く、東京の夏休みは、道産子にとっては異常な長さ。

子供たちは嬉しいだろうけど、妻と僕にとっては、なかなかの荒行の始まりです。あはは…


さて、先日書きだした「ミリンダ王の問い」なのですが、これをわかりやすく書こうと思ったんですけどね、やってみると中々に大変です。

いわずもがな、ですが、僕の記載している内容は、経典の記載そのままではなく、そうとうに超訳してあります。

なので、先日のコメント欄にも指摘がありましたが、ミリンダ王は、そんなに聞き分けのいい人ではありません。

あんな短いやり取りで納得なんて、していないんですね。

もう、何度も何度もしつこいぐらい、同じ質問を繰り返したり、一般的価値観をぶつけて反論したり。

で、ミリンダ王とナーガセーナでは、二元と一元という存在基盤・価値観の違いがあるので、そのやり取りも、ちぐはぐなんです。

それでも、問答のやり取りを繰り返すなかで、少しずつ、ミリンダ王も、ナーガセーナの言葉の意図が掴めてくるようになるんです。

それは、どんなに反論を繰り返しても、事実、ナーガセーナの言う通り「主体をみつけだせない」という事実でした。

ここら辺は、先日までの「主観≠主体」「夢から覚めたら」、「五蘊HOUSE」シリーズ的なものが延々続いたと思ってください。

そこでようやく、ミリンダ王にも「あれ?ほんとに<わたし>というものは現象としては、確固たる存在として感じられるけど、『主体(物事を動かしている主人)』とは言えないぞ」ということになってきます。

で、その「無我」という感覚が掴めかけてくると、ようやく次の段階の話になるのですが、これはやっぱり、前提として「無我(わたしはいない)」ということが理解、納得できていないと、わかりようのない話になっていきます。

それは、いわゆる『原因と結果の法則』に関わることなのですが、「わたしはいない」という存在基盤においては、この法則についての捉え方が、根底から覆ってしまうからです。


『因果』という仏教用語は、その感じの印象通り「原因と結果」を指すのですが、唯一、僕たちの一般感覚と違うのは、そこに<わたし>(主体)がないことです。

「善因善果(ぜんいんぜんか)」は「善が善をうむ」、「悪因悪果(あくいんあっか)」は「悪が悪をうむ」、「善因楽果(ぜんいんらっか)」は「善が楽をうむ」、「悪因苦果(あくいんくか)」は「悪が苦をうむ」という意味ですが、

それぞれ、そこに主体としての<わたし>が含まれないのです。

「善が善をうむ」「悪が悪をうむ」のであって、「わたしの善が善をうむ」「わたしの悪が悪をうむ」ではないのです。


これがどういうことなのか、それを掴むために、今日はちょっと考えていただきたいと思います。


あなたがいま、こうしてこのブログを読んでいるこのことを「結果」とした場合。

その「原因」は、なんでしょうか?




【トークライブインフォメーション】

平日のお話会「月イチ☆」「月イチ☆WEST」「でら☆月イチ」

今月は「スピリチュアルって何ですか?(毒舌編)」をテーマにお送りする予定です。

【兵庫】7月27日(月)19:30〜21:30(19:00開場)兵庫県民会館 会議室303 [詳細・お申し込み]
※ただいま「イープラス」にて、「21:30開演」との表記がありますが、正しくは「19:30開演」です。
 「21:30開演」の表記のあるチケットでも、当日は「19:30開演」として同じく受付させていただきます。よろしくお願いいたします。


【名古屋】7月28日(火)19:30〜21:30(19:00開場)ウインクあいち 1207会議室 [詳細・お申し込み]

【東京】7月31日(金)19:30〜21:30(19:00開場)三鷹産業プラザ 701会議室 [詳細・お申し込み]


※パソコンや携帯電話からのお申し込みが面倒、わからない、という方には、ファミリーマートさんの情報端末「ファミポート」でのお手続きをオススメしております。
 ご利用方法については【コチラ】をご参照ください。



来月(8月)の月イチは、

8月20日(木)京都、21日(金)浜松、31日(月)東京、を予定しております。

こちらも、準備が整い次第、改めて告知いたします。


←ボタンを押す、という、その結果における「原因」は何か。
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当選はっぴょー!

さて、当ブログ開設9周年記念プレゼント企画に、本当にたくさんのご応募ありがとうございました。

「もうそろそろ、このブログも飽きられる頃だろう、嫌われ始める頃だろう」と、ちょいちょい思ったりするのですが、こうしてプレゼント企画をしてみると、ありがたいことに毎年応募数が増加しておりまして。

さらにはアンケートコメント欄への書き込みも、温かい応援の言葉がビッシリと綴れられるようになりました。ありがとうございます。

そのメッセージひとつひとつに目を通し、思わず目頭を熱くさせながらですね、感動させてくれた、褒めちぎりのメッセージをお寄せくださった方を優先してプレゼントを送付したいな、なんてことを毎年思うわけなのですが、そこをグッと堪えて、例年通り、(iPadアプリ「抽選くん」による)厳正な抽選を行いました。


ご当選は以下の通りです。

当地区に同じペンネームでご応募された方もいらっしゃるかもしれません。ぬか喜びにご注意ください。


【スピリチュアル解体新書 ブログ開設9周年記念プレゼント ご当選者】

◎『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶著(マガジン・マガジン刊)
 山梨県 cocofu2さま
 大阪府 テッドさま

◎『人生は愉快だ』池田晶子著(毎日新聞社刊)
 東京都 中村麻友美さま
 東京都 ウッキ〜★さま

◎『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』魚川祐司著(新潮社刊)
 東京都 石田宏さま
 鹿児島県 waiwaiさま

◎『ものの見方検定 「最悪」は、0.1秒で「最高」にできる!』ひすいこたろう著(祥伝社刊)
 埼玉県 あきさんまさま
 神奈川県 まほさま

◎『(身の回りの見えない構造を解明する)やわらかい頭の作り方』細谷功著(筑摩書房刊)
 愛知県 しんこさま
 愛知県 あんこさま

◎『黒澤デザインTシャツ(NOSCE TE IPSUM)』
 長野県 みさとんさま
 岩手県 菅原和子さま


以上12名さまに、発送の準備が整い次第、該当のプレゼントをお送りいたします。

賞品の到着まで、しばしお待ちください。



で、ですね。

今回、Tシャツにつきまして、「なんとか購入させていただけませんか?」というお問い合わせを多数いただきまして。

じゃあ、ってことで、このたびユニクロの「UTme! MARKET」にクリエイター登録&出品をしたんですね。

で、申請にあわせて自動ツイートも流れたのですが…

_| ̄|○ 先ほど審査落ちしました…


ヾ(`⌒´メ)ノ 「却下理由:著作権侵害のおそれ」って、なんでだよ! 怖れるな! 突き進めユニクロ!


とりあえず、懲りずに何度も申請し直してみます。審査、通るといいなぁ…

無事登録となりましたら、改めてご報告いたしますね。



それとですね、

平日のお話会「月イチ☆」「月イチ☆WEST」「でら☆月イチ」につきまして。

最近、いろいろと思うところがございまして、今月は少々辛口の内容で進めようかと思っております。

ということで、今月のお話のテーマは「スピリチュアルって何ですか?(毒舌編)」。

ブログという媒体は、不特定多数が触れることができるものです。

だからこそ、あまり、記載にはふさわしくない、書くに書けないものがあるのです。

そこらへんを少し、ぶっちゃけちゃおうかと。

ちなみに、今回の「月イチ☆WEST」は大阪ではなく、兵庫での開催となりますので、ご注意ください。

平日のお話会「月イチ☆」「月イチ☆WEST」「でら☆月イチ」

【兵庫】7月27日(月)19:30〜21:30(19:00開場)兵庫県民会館 会議室303 [詳細・お申し込み]
※ただいま「イープラス」にて、「21:30開演」との表記がありますが、正しくは「19:30開演」です。
 「21:30開演」の表記のあるチケットでも、当日は「19:30開演」として同じく受付させていただきます。よろしくお願いいたします。


【名古屋】7月28日(火)19:30〜21:30(19:00開場)ウインクあいち 1207会議室 [詳細・お申し込み]

【東京】7月31日(金)19:30〜21:30(19:00開場)三鷹産業プラザ 701会議室 [詳細・お申し込み]


次回、8月の月イチは、

8月20日(木)京都、21日(金)浜松、31日(月)東京、を予定しております。

こちらも、準備が整い次第、改めて告知いたします。


←たくさんの応援、ありがとうございます。
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弥蘭陀王問経.1

上座部仏教に伝わる、パーリ語で書かれた仏典のひとつに、『弥蘭陀王問経(ミリンダ王の問い)』というお話があります。

これは、紀元前2世紀後半、アフガニスタンとインド北部(インド・グリーク朝)を治めていたギリシア人の国王、メナンドロス1世(ミリンダ王)と比丘ナーガセーナのやり取りを記録したもの。(ちなみに、作者不明)


そのやり取りを通じて、後にミリンダ王は出家し、阿羅漢果を得たと伝えられています。

一国の王を「社会」という枠から出し、悟らせてしまった、その問答とは…。

まるで落語を聞いているかのような軽妙なやり取りの中で、「存在の本質」「無常」「輪廻転生と業(カルマ)」について教えてくれています。

今日はまず、そのやり取りの一つ目、「存在の本質」についての問答をご紹介したいと思います。


*****

ある時ミリンダ王は、「すっげー人がいるぜ!」的な噂を聞いた。

それは誰かと尋ねると、ナーガセーナ、という答えだった。

よくよく話を聞くと、このナーガセーナ、比丘である。

比丘というのは、出家者として全く生産に従事しない修行者のことで、他者から布施されるものによって、生活を維持している。衣は糞掃衣(汚物を拭ったようなボロボロの衣)を着し、食は「托鉢」によって得たものを食し、住は森林や園林に生活した。

ミリンダ王から見れば、完全に乞食、社会性の欠落したニート同然。とても徳の高い高僧としては捉える事ができなかった。

そのような乞食が、なぜ人々から崇められているのか。

ミリンダは、世を治める一国の王として、そこに興味があった。

百聞は一見にしかず。ミリンダは自らナーガセーナの元を尋ね、その疑問を晴らそうとした。


「たのもう、たのもーう! ここにナーガセーナはおるか?」

「なんのご用ですか?」

森の中からひょうひょうとした小汚い男が現れた。出会い頭からがっかりである。

「お前がナーガセーナか?」

ミリンダの問い掛けにナーガセーナは答えた。

「はぁ、たしかに世間からはそう呼ばれてはおりますが、それはあくまで慣用的な名称や記号、概念であって、それに対応する『ナーガセーナ』という実体、人格は存在しませぬ」

「お前は何を言うとるのじゃ?」

「『ナーガセーナ』という名はあれど、『ナーガセーナ』という実体はありませぬ」

目の前に本人がいるのに、「ナーガセーナは存在しない」とはどういうことか。

訝しがって眉間に皺を寄せながら、ミランダは言った。

「なぁ、ナーガセーナ。それは私をからかっておるのか? それとも本気で言うておるのか?」

「なぜゆえ嘘をつく必要がありましょう。事実、存在せぬのです」

「ならば、まず先に、これまでお前に様々な布施を施してきた世の人々に詫びよ!
お前の生活全般、衣食住を支える様々なものを受け取っておきながら、『その当事者がいない』とは、恩を仇で返すような物言いではないか!
ましてお前は『修行僧』として托鉢をしている身。修行僧に実体がないのなら、誰が修行を実践しているというのか。
衆生の苦しみに対し、一体誰が、法を説くというのか。
実体のないものが修行僧を気取って布施を受け取っているのであれば、詐欺も同然。まさに、鬼畜の諸行、下衆の極み!」

「え? ハマカーン? ハマカーンの浜田?」

「なんだそれは!? とにかく、お前に実体がないのであれば、ここでお前を殺しても構わぬな!? いや、実体がないものを切るのだから、お前を殺しても、それは殺生ではないということでよいな?」

「そういうことではないのですよ、ハマカーン王」

「ミリンダだよ! だいたい、お前自身が『私はナーガセーナと呼ばれています』と言うのなら、そのナーガセーナとは一体なんだ。その身体が、ナーガセーナではないのか!」

ナーガセーナは首を横に振った。

「いいえ。この髪も、爪も、歯も、皮膚も、肉も、骨も、内臓も、糞便も、血液も、汗も涙も、ナーガセーナではありませぬ」

「では、そのような物のありかた、行為のありさま、五感や知覚、認識作用、そこにナーガセーナがあるのだな?」

「いいえ。違います」

「ぬぬぬ…。では、その意識こそが、ナーガセーナだ!」

「いいえ、それも違います」

その後もミリンダ王は、「それらの総体」「それら以外」など問うも、ことごとく「違う」と否定され続けた。

「ならば、もうどこにもナーガセーナを発見できないではないか!」

「ですから、最初からそう申しておるではないですか」

「もういい!お前はやはり、嘘をついて衆生をからかっておるのだな!
そのような出口の見いだせない嘘を用いて衆生を惑わし、ペテンにかけておるのだな!
ふんっ、いいだろう。私は、ここでお前を殺しはせぬ。
その代わり、金輪際そのような下劣なことが出来ないよう、国中に、ナーガセーナらの教えはペテンであると、広く知らしめてくれようぞ。
そうすれば、お前ら比丘がいままで通り布施を受け取ることなどできなくなろう。
乞食のようにも暮らせては行けぬ。
死にたくなければ社会に戻り、真っ当に働くことだな。覚悟しておけっ!」

ミリンダ王がその場を立ち去ろうとしたとき、ナーガセーナが口を開いた。

「ところでミリンダ王、今日はここまで、どうやっておいでなさった。歩きですか、牛車ですか?」

「こんなところまで、私が徒歩で来るわけがあるまい。牛車で来た」

「なるほど。ではミリンダ王、今度はこちらが問いますが、『牛車』とはなんですか?」

「なんだと?」

「牛が、牛車なのですか?」

「いや、違う。牛は牛だ」

「では、轅(ながえ:前方に長く突き出ている2本の棒)が牛車なのですか?」

「いや、違う」

「では、車輪が牛車なのですか? 車室が牛車なのですか? 鞭が牛車なのですか?」

「いや、いずれも違う」

「では、それら以外が牛車なのですか?」

「そんなワケがあるまい!」

ナーガセーナは次々と、一体どれが「牛車」なのかと問い続けたが、ミリンダ王は、「それらはすべて牛車ではない」と否定し、そして、ハッとした。


「ミリンダ王、おわかりになりましたか。『牛車』には実体がありませぬ。
牛車は、それぞれの部分が依存し合った関係性の元に成立する、慣用的な名称や記号、概念でございます。
ナーガセーナも同様。すなわち、ミリンダ王、あなたもまた、同様に実体がないのです。
実体のないものが、国を治めるとはいかがなものか。
あなたのしていることは、私同様、詐欺ということでよろしいですか?」


「……。ナーガセーナ、先ほどの罵詈雑言、すまなかった。よかったら、もう少し話を聞かせてはくれまいか」


こうして、王が乞食に教えを請うという、奇妙な関係が始まった。



【トークライブ・インフォメーション】

9月19日(土)、両国、KFCホールにて開催される大和田菜穂さんのイベントに、「阿雲の呼吸(阿部敏郎・雲 黒斎)」として、ゲスト登壇させていただくことになりました。

お話のテーマは、『世界が消えたときにある世界』

詳細・お申し込みは、阿部さんのブログをご覧ください。

*****

平日のお話会「月イチ☆」の7月分の受付を開始いたしました。

各会場ともに、イープラスにてチケットを販売いたしております。

パソコン・および携帯電話でのお申し込み手続きが面倒な方には、ファミリーマートさんでの店頭購入をお勧めしております。

ファミリーマート「Famiポート」の使い方は、【コチラ】をご参照ください。


平日のお話会「月イチ☆」「月イチ☆WEST」「でら☆月イチ」

【兵庫】7月27日(月)19:30〜21:30(19:00開場)兵庫県民会館 会議室303 [詳細・お申し込み]

【名古屋】7月28日(火)19:30〜21:30(19:00開場)ウインクあいち 1207会議室 [詳細・お申し込み]

【東京】7月31日(金)19:30〜21:30(19:00開場)三鷹産業プラザ 701会議室 [詳細・お申し込み]



←「アイコン」は、ピクセル(色)が依存し合った関係性の元に成立する、慣用的な名称や記号、概念でございます。
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主観 ≠ 主体

一つの事象を前にして、人それぞれ捉え方が違う、ということは、ご理解いただけるかと思います。

この「人それぞれの捉え方」、つまりは、「わたしから見て」というこのことを『主観』と言います。

多くの場合、人はこの主観を「現実」として誤認しています。

「わたしが、今まさにそう感じている」という(個人的な)事実があるからこそ、それを「現実」と呼ぶのですが、主観はあくまで主観であり、誰にとっても共通の事実ではありません。

世にある様々な争い・軋轢は、この主観と主観のぶつかり合いです。

主観というのは、誰にとっても「わたしにとっての事実」であり、その事実は事実であるゆえ「正しさ」としても機能します。


争いに「善(正)と悪(誤)」という関係はありません。

当事者同士の、「主観と主観」、つまりは「(わたしにとっての)善と(わたしにとっての)善」のぶつかり合いです。

双方ともに、「わたしが正しく、あなたが誤っている。わたしの主観に合わせなさい」というのが、争いの背景にある主張です。

その仕組みに気づいていないからこそ、世から争いはなくなりません。

皆、自らの主観を頼りに「悪をなくせ!」と拳を振り挙げてしまうからです。

でも、そもそも「善と善」が争っているのですから、そこには「なくそう」としている悪がありません。

(一方、自己肯定感の低い方にとっては、「主観」の正当性の主張とは反対に、「わたしが誤っている、誰かが正しい。信頼できる誰かの主観に合わせなければ」という歪みに陥ります)

その愚かしさに気づきなさい、と呼びかけてくれるのが「宗教性」や「スピリチュアリティ」というものです。


「宗教性」や「スピリチュアリティ」は、「宗教」「スピリチュアル」と名の付いた、某かの信念や思想、正しさを提示しているわけではありません。

それでは、上記の「主観の押しつけ」となんら変わりありません。


では、「宗教性」や「スピリチュアリティ」で、実際は何が話されているかというと、「あなたが他者(もしくは自身)を貶めてまで主張している、その主観の持ち主は誰ですか?」ということです。

「わたしの考え」「わたしの思い」というときの、その「わたし(主体)」は、どこにいるのですか? という問いです。

『主体』というのは、思考や意志、行動をコントロールする、その主導権を有するもの、のことです。

主導権があるということは、そこには主となって物事を動かし進めることができる何者かがいるということ。

なので、先の問いを言い換えると…

その「何者か」は、本当にあなたが<わたし>と指しているものと、イコールで結ばれているのですか? ということです。

なのですが、

大抵の場合、疑いなく「主観 = 主体」だと思っているので、この質問の趣旨が掴めずに、「何を言っているんだ、その問いを向けるあなたがそこにいるように、わたしはここにいるじゃないか」となってしまう。

でも。

本当に、わたしは、わたしをコントロールしているのでしょうか?(「個人」における主体があるのでしょうか?)

物事を動かし進める力を有しているのでしょうか?



ここで、改めて五蘊を振り返ってみましょう。


色蘊(身体)

僕たちは、身体に対するイニシアチブを有しているでしょうか? 
もし本当に身体に対しての主導権を握っているのであれば、病も老いもないはずです。
また、呼吸も鼓動も消化もまばたきも、ありとあらゆる身体機能に意識を向け続けていなければならないはずです。
ですが、実際のところ、身体は僕たちの思惑とは別に、勝手に機能しています。
病気になったとき、それを本当の意味で治療しているのは「自然治癒力」です。
「自己治癒力」ではなく「自然治癒力」。
だとすれば、治している(主導権を握っている)のは、「自己」ではなく「自然」の側です。
自身(と思っているもの)の思惑から離れ、勝手に動いているものを、はたして「主体」と呼べるでしょうか?


受蘊(感覚)

では、五感はどうでしょうか?
例えば蚊に刺されたとき、その痒みを、<わたし>の意志によって遮断することは可能でしょうか。
例えば目を見開いたまま、目の前にある映像を捉えないようにすることは可能でしょうか。
色蘊同様、受蘊も、僕たちのコントロール下にはありません。
ゆえに「主体」とは言えません。


想蘊(概念)

概念は単に概念であり、それ自体がイニシアチブを有しているわけではありません。
また、概念それ自体が物事を動かし進めるわけでもありませんから、やはり、「主体」とは言えません。


行蘊(意志・衝動)

意志・衝動はどうでしょうか?
僕たちが「何かをしたい」と思った時、なぜそれをしたいと思ったか、その理由を明確にすることは可能でしょうか。
「したい(したくない)」と現れた衝動を、瞬時に「したくない(したい)」と切り替えるイニシアチブを有しているでしょうか。
また、いかなる衝動も、自身の意志を持って発露させているでしょうか。
自身(と思っているもの)の思惑から離れ、衝動が勝手に沸き起こっているのであれば、やはり「主体」とは呼べません。


識蘊(認識)

何かを好み、何かを嫌う。
例えば、何かを食べたとき、それを「おいしい」と思うか「不味い」と思うか。
「なぜ、そう思ったのか。そう捉えたのか」
その理由を明確にすることは可能でしょうか。
認識をコントロールすることが出来るのであれば、どんなものを口にしても、それを「旨い」と捉えることが出来るはず。
でも、できません。
なぜか好きで、なぜか嫌い、なんです。
自身(と思っているもの)の思惑から離れ、認識が勝手に沸き起こっているのであれば、やはり「主体」とは呼べません。



さて、以上のとおり

「(わたしの)身体」

「(わたしの)感覚」

「(わたしの)思考」

「(わたしの)衝動」

「(わたしの)認識」

には、主導権がありませんでした。


身体も、感覚も、思考も、衝動も、認識も、それ自体が主体でないのであれば、<わたし>と呼べる「主体(個人)」は、どこにあるのですか?

身体、感覚、思考、衝動、認識、それらを「有している」という<わたし>は、どこにあるのですか?


以上のことから、この問いの提示が「主観の押しつけ」とは、まったく別な次元で語られていることに気づけますか?



←今日のエントリは、ちょっと小難しかったかな。。。
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9周年プレゼント

さて、先日お話したとおり、このブログも、おかげさまで9周年をむかえました。

今年のプレゼント企画はどうしようかとアレコレ考えてみたのですが、やはり、例年どおりオススメの本をプレゼントしたいと思います。

と、いうことで。

久しぶりの「黒澤レコメンド」。

山川ご夫妻と鼎談させていただいた新刊の巻末にも、同様のコーナーがありましたので、少々かぶるところがございますがご了承ください。

まずはコチラ。



『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶著(マガジン・マガジン刊)



僕がこの本に出会ったのは、3年前。

2012年に、俺的「ブック・オブ・ザ・イヤー」を受賞した本です。

トークライブでも、しょっちゅうご紹介している一冊です。

これを読んだとき、まず最初に思ったのは、「やられたっ!」。

「この本は、僕が書きたかった」という気持ちにさせられた本でした。

洋の東西を問わず、様々な哲学をユーモアを交えてわかりやすく紹介してくれる飲茶さん。

僕のブログのトーンを面白いと思ってくれる方なら、十中八九、楽しんで読んでいただけるのでは、と思っています。


続いては、哲学繋がりで。

僕の大好きな、池田晶子さんの著書の中から、今回はコチラ。



『人生は愉快だ』池田晶子著(毎日新聞社刊)


これまでも、いろいろな場で頻繁にご紹介してきた『残酷人生論』と対象的なタイトルですが、指し示しているところは同じです。

最近「ノンデュアリティーがブームになっている」という話をよく耳にするようになりましたが、僕はあまりブームだとは思っていません。

だって、数千年もの間、語られ続けているものを「ブーム」と呼べるでしょうか。

「無我」「アドヴァイタ」「ワンネス」「ノンデュアリティー(非二元)」、言葉は違えど、言わんとしていることは同じです。

死を見つめることから始まる、生の理解。そして、<わたし>とは。

「未来への不安、もしくは過去への後悔、いずれも時間認識の勘違いです。だって、未来や過去を悩んだり苦しんだりしているのは、まさしくこの現在ではないですか。 あ、なあんだ。 と、気がつけば、錯覚としての悩みや苦しみは脱落します。そして、なんらそういいった感情は湧かなくなり、逆に楽しみや喜びといった感情が湧いてくるようになるのです」(プロローグより抜粋)

「わたしとは何か?」「存在とは何か?」「生・死とは何か?」ということを、古今東西の哲学者や心理学者、宗教家たちがどのように捉え、そして表現してきたか。

そして、「ない」を理解した上で「ある」という世界をどう生きるか。

池田晶子さんらしい切り口と洞察で、存在の本質に迫った名著だと思います。


3冊目は、2015年上半期、僕がもっとも感銘を受けた本です。



『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』魚川祐司著(新潮社刊)


仏教関連書は数あれど、これほど核心をついたものに、僕は出会ったことがありません。(まぁそもそも、そこまで沢山読んでいるわけではないのですが)

ブッダが説いたのは、「どうやって自己を完成させるかではなく、いかにして自己を超えていくか」。

徹頭徹尾、仏教の原点を突き詰めた研究姿勢が、仏教が「衆生を癒す宗教」ではないことを、ズバリと指摘してくれます。

学術書ならではの、お硬い表現で綴られているため、活字アレルギーの方には、ちょっと読み進め辛いかもしれませんが、沢山の方に読んでいただきたいと思う名著です。


そして4冊目は、先日イベントをご一緒させていただいた、この方の本。



『ものの見方検定 「最悪」は、0.1秒で「最高」にできる!』ひすいこたろう著(祥伝社刊)


『3秒でハッピーになる名言セラピー』『あした死ぬかもよ?』などなど、数々のベストセラーを世に送り出してきた、ひすいこたろうさん。

「人生に革命を起こす、ものの見方・捉え方」

21問のクイズ形式で進む本書は、単に情報を提供するのではなく、「参加・経験する本」になっています。

人生に対する、限られた「答え」ではなく、「解き方(可能性)」を広げてくれる一冊です。


5冊目はこちら。



『(身の回りの見えない構造を解明する)やわらかい頭の作り方』細谷功著(筑摩書房刊)


どうしても宗教やスピリチュアルで語られていることが理解できない、受け入れられない、腑に落ちない、そういう方も少なくないと思います。

「宗教」や「哲学」、「スピリチュアル」という言葉を見ただけで、「うっ…」と拒否反応を持ってしまう方にオススメしたい一冊。

装丁デザインの印象通り、非常に取っつきやすいのが魅力です。


で、最後に、恒例のTシャツ。

今回は、ユニクロさんの「UTme!」を利用して作成したもの(ベーシックT)をお送りいたします。



ちなみに「NOSCE TE IPSUM」とは、ラテン語で「汝自身を知れ」。

ご応募の際は、サイズ指定をお間違えなく。

(詳しいサイズはコチラをご参照ください。)



以上、6点を、抽選で各2名様にプレゼントいたします。

いつものごとく、ご応募はお一人様1回限りとさせていただきます。

〆切は、1週間後の7月14日いっぱいまで。


ご応募フォームは【コチラ】


さぁ、「Now get a CHANCE!」(伊東四朗風に)



←噂では、これを押すと、当たりやすくなるそうです。(どこにそんな噂が?)
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お先真っ白

先日お話したとおり、「気づき」というのは、「正しさを知ること」ではなく、「過ちに気づくこと」なんですね。

なので僕も、正しさや答えを知ったわけではありません。

長い間、そこそこ何かを知っているつもりで生きてきたのに、じつは、何も知らなかった、ということに気づかされたんです。

自分が大事に抱えていたものが、すべて「思い込み」であったということに気づくと、そこには、それまでの人生で経験したことのない、なんとも表現しがたい気持ちがありました。

大切にしてきた思いも、自らを苦しめていた思いも、全部が全部、思い込みだったのですから。


「お先真っ暗」だった人生が、突然「お先真っ白」になりました。

映画館などの暗がりから、いきなり快晴の屋外へ出ると、その眩しさで、目の前が真っ白になりますよね。

そんな感じです。



この暗がり(閉鎖空間)に、




パッと、光が差し込んだんですね。

で、目が眩んじゃった。


真っ暗は真っ暗で、何も見えず、どこをどう歩んでいいかわからない、手探りの人生でしたが、

真っ白は真っ白で、やはり何も見えず、どこをどう歩んでいいかわからない、手探りの人生になったんです。


具体的に、どんなことが起きたかというと、一時、「言葉の意味が、全然わからない」という状態になったんです。

でもそれは、赤ん坊のように「言葉を知らない」ということではありません。

言葉は言葉として、これまで身につけてきたまますべて、知っていました。

ボキャブラリーの消失ではないので、日常的に「会話が出来ない」ということでもありません。

それまで同様、言葉を使ってのコミュニケーションは可能でした。

なのですが、同時に「言葉の意味(指しているもの)」が、わからなくなっていたのです。


言葉を知っていることと、その言葉が指しているものを理解しているのでは、大きな違いがあります。

そのことに気づいて、大変なショック、というか、パニックになったんです。

言葉は知っている。でも、その言葉が何を指しているのかわからない。

そこから僕は、頻繁に辞書をひくようになりました。


でも、ほとんどの場合、なんの参考にもなりませんでした。

「命」をひけば「生命のこと」と解説され、「生命」を調べれば「命のこと」と書かれている。

「魂」をひけば「霊魂のこと」と解説され、「霊魂」を調べれば「魂のこと」と書かれている。

いまではトークライブなどで、笑い話の一つとしてお話していますが、実際、そんなことの繰り返し。


つまり、「知っている」と思っていたあれこれの、「ほんとうの意味は知らなかった」ということには気づきましたが、その「ほんとうの意味を理解する」までには全然至っていなかったんです。

いまだに、ほんとうの意味を知らないまま使っている言葉、多数です。


僕がたびたび「通じますか?」と尋ねたり、お話に辞書の引用をよく用いるのには、そんな背景があります。


そう考えると、こうして人が言葉を介してコミュニケーションが成立するというのは、本当に奇跡だと思います。

いや、もしかしたら、「コミュニケーションが成立している」ということすら、思い込みなのかもしれません。

だって、お互いに意味が不明確なまま、もしくは勘違いしたまま、会話しているんですから。



まぁ、とにもかくにも、こうして会話が成り立ち、真意が理解でき、意思疎通ができたのだとしたら、それって奇跡だと思いません?



←日々、たくさんの方が押してくれている、これもまた、ふと気づくと奇跡ですよね。
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「分かる」と「解る」

さて、先日も『理解』というタイトルで、「知る」における2つのベクトルを「習得と理解の違い」として記載いたしましたが、ここは本当にとても大切なところなので、改めてお話させてください。

うん、しつこいことは、わかってる。自分でもそう思う(笑)


肉体が、この世に生じ、そこから徐々に<わたし>という感覚が形成されるわけですが、自我(分離意識)が確立されるまでのプロセスを、以前の表と照らし合わせてみると、実は、この表と逆のベクトルに向かっている事がおわかりいただけるかと思います。




STAGE.4 ノーボーダーの状態から
  ↓
STAGE.3 家(個別空間)作るための建材が用意され
  ↓
STAGE.2 棟上げを通して
  ↓
STAGE.1 竣工


つまり僕たちは、この世に現れてから、一旦「悟りを閉じた」のです。

なので、一度閉じたそれを「開く」のは、逆のプロセスを辿ればいい、というだけなんですね。


で、何を逆行させればいいかというと、僕たちが持つ「わかる」や「わかってる」という、これを逆行させるんです。

このことを、先ほどの表に反映させると、こう付け加えられます。(最下段・黄色の矢印)




自我を形成・維持するのは「分かる・分かってる(習得)」。

自我を分解・消失するのは「解る・解ってる(理解)」。


「分かる」も「解る」も、読み方は「わかる」ですが、ことスピリチュアル(探求)においては、向かうベクトルは真逆です。


「分かる」は、「分かつ(分ける)」からきています。

物事を「分け」、その分けたものを「それ」だと、習得する。

小さな頃を思いだしてみてください。

思い出せなければ、子育てを想像してみてもいいです。

幼い子供が、何をどういう順で覚えていくかというと、まずは様々な「分類」や「名前」を覚えるところから始まりますよね。

そういった「分けたもの」の積み重ねで「分別(区別)」がついていく。

これが、「分かる」です。

その流れは、右から左へ向けての流れです。


一方「解る」の「解」は、「解ける(ほどける)」と読みます。

で、「理解」ってのは、「理(ことわり)が、解(ほど)ける」と書きます。

「理(ことわり)」ってのは、「条理」や「道理」、「当然であるさま」などを言います。

当然とは、さて、誰にとっての当然なのか。

僕たちが、普段「当然」と思っているあれこれは、とても局地的・主観的なものに溢れています。


その<わたし>が抱える「当然」が、解(ほど)けることで理解は現れ、同時に<わたし>も解け出すのです。

コチラの流れは、左から右のベクトルです。




宗教性・スピリチュアリティの探求に必要なのは、「分かる」ではなく、「解る」のベクトルです。

なので僕は、スピリチュアルを「分かろう」としている人には、「もう僕の本もブログも見ないほうがいい。トークライブにも来なくていい。一度スピから離れることをオススメします」とお話します。

一方、「解ろう」としている人には、「これまでの損得勘定や先入観、善悪基準などを一旦脇において、沢山の本を読み、沢山の人に出会い、『そんなこと、あるはずがない』と思えることにあえて飛び込んでみてください」とお話します。

その中で、池田晶子さんやエックハルト・トールさん、阿部敏郎さん、牧野内大史さん、賢者テラさん、知井道通さん、ひすいこたろうさん、さとうみつろうさんなど、僕たちが保有しがちな「常識」「当然」「当たり前」を切り崩してくれる方々をご紹介しています。

でも、そこにある言葉もまた、「分かる」として習得することも可能なんです。

これが厄介なところで。


阿部さんがよく、どんなに素晴らしいと思える言葉でも、それを信念として持ち歩いてはならない、と、繰り返しお話されているのは、この「分かる」と「解る」の違いがあるからこそなのです。

「分かった」ら、持ち帰るものがあるから、お土産が増えます。

「解った」なら、落ちたウロコの分だけ、軽くなります。


「分かる」には、「答え」があります。

「解る」には、「気づき」があります。


答えに出会えるのは「分かる」のベクトルですが、それは「(分けた上での)答え」です。


スピリチュアルな探求で、「答え」を求めても、決して見つかりません。

そのプロセスに、「気づき」があるだけです。


何年も前から、「このブログには、答えは書いてありません」と繰り返し記載したのは、そのためです。

そしてまた、「僕にはあなたは救えません」と記載していたのも同様です。

ここにある言葉の羅列を「分かった」と捉えたのなら、その知識はその方の自我に取り込まれます。

「解った」のなら、目からウロコが落ちる切っ掛けの一つになったのでしょうが、それが落ちるのも、誰のせいでもないんです。


矢印を逆にしてみました→
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<わたし>のホントの誕生日

「あなたはいつ生まれましたか?」

そう聞かれると、たいてい人は誕生日を答えます。

これまで、「わかりません」とか「いえいえ、わたしは生まれていません」という返答に出会ったこと、ないです。

これまでのブログ、および拙著でお話してきたとおり、「命のリレー」は、人間の勝手な想像です。

バトンの様に、誰かから誰かへ渡っていく、そんな命や魂など実在しません。

まして、誕生日に「身体に命や魂が入り込む」ことなどありません。

お母さんのお腹の中にいるときから、生きています。

命は、生まれもしなければ死にもしない、時の概念を超えた存在です。


では、この<わたし>という分離感覚は、いつ生まれたのでしょうか?

その答えは、「物心がついた時」です。

「物心がつく」というのは、「幼児期を過ぎて、世の中のことが徐々に分かり始める。分別がつく」ということ。

そう、その説明が指す言葉のとおり、「世界を分け始める」ということにおいて、<わたし>という感覚が生まれたのです。

もちろんこれには、明確な「誕生日」と言えるものはありません。

徐々に形成されるので、「いつのまにか」という感じです。


お母さんのお腹から出てきた時。

そこに身体はあっても、まだ<わたし>という分離感覚は確立されていません。


五蘊HOUSEになぞらえるなら、まだ基礎工事が終わっただけで、<わたし>という閉鎖空間はありません。


1才のお誕生日は、「さぁ、餅まくべ!」ってな具合の『棟上げ式』です。



<わたし>の骨組みが立ち上がり、ようやく家(個人)としてのカタチが見えてきましたが、まだ壁も屋根もありませんので、空間的には内も外もありません。

そして、他者との関わりの中で、様々な概念を発達させます。

「○○ちゃん、こっちがママで、こっちがパパよ」

「○○ちゃん、これは、『ジュース』。飲み物よ」

「○○ちゃん、これは、してもいいこと。これは、してはダメなこと」

繰り返し繰り返し、教育と経験の中で「想蘊」「行蘊」という壁材・屋根材の施工が進みます。

2才ぐらいになると、「言葉(概念)」も増え、鏡に映る自分がわかったりと、だいぶ「自他の区別」が出来上がってきます。


で、ハッキリと自他の区別もつき、<わたし>が竣工するのは、だいたい3才になるぐらいでしょうか。

すっかり<自己>という空間は分離、隔離され、僕たち大人には、もうすっかりお馴染みとなった「息苦しさ」を知ることになります。

もともと無限の広がりをもつ存在だったのに、こんなにちっぽけな空間に閉じ込められるなんて!

その息苦しさと、<わたし>による自由意志の確認作業が、第一次反抗期(イヤイヤ期)となって現れます。


そんな感じで、<わたし>という、いまや僕たちが当たり前に持つ分離感覚は、元から存在するものではなく、後天的に、徐々に形成されてきたものなんです。



←イヤイヤ期?
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