カイロじじいのまゃみゅむゅめも

カイロプラクティック施療で出くわす患者さんとのやり取りのあれこれ。

ひめゆり忠臣蔵

2009-04-10 19:54:01 | 本日の抜粋

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* こうした英霊=戦争犠牲者の正体が何であるか、沖縄式反戦平和は考えてみたことがあるのだろうか。確かに彼らは戦さの死の暴力がむき出しで迫ってきた時には恐怖して、「生きたい、生きたい。戦争のない時代に生まれたかった」(ひめゆり語り部の伊波園子)と平和な世の到来を願ったかもしれない。しかし大日本帝国というお国の敗北までも真剣に願ったという証拠はない。いや、むしろ勝ち続けることを祈った、願った魂だったという方が正確ではないのか。そして勝ち続けるということは、トーゼン『東洋平和』(=戦前アジアへの膨張主義)を永遠化ならしめることに他ならなかった。だからそれらの慰霊や英霊はいかに平和を希求した魂だったとしても、侵略されたアジアの痛みを知らぬ<加害者の霊魂>なのだ。いわば弾丸や毒ガスの苦痛、戦争被害の怨みだけは知っているが、己の加害責任の方はサッパリ知らないまま死んじまった、やっかいでイーカゲンな亡霊たちだ―そんなものに向かって今更なにを詫びるのか。反戦平和をナゼ誓うのか。何度でも繰り返すが、慰霊や鎮魂の塔の上に祭り上げられている戦争犠牲者の魂とは、大東亜共栄圏万歳(=東洋平和)のレベルのまま凍結してしまった魂で、戦後の民主主義や反戦思想とは無縁の魂なのだ。

* そう、沖縄は「戦争させられた」のではなく、自分たちの意志で「戦争した」のだと認めるべきなのだ。そうすれば、戦争するなんの必然性もなかった沖縄がナゼ戦争を欲したか―その戦争よりも平和よりも根深く沖縄人を支配した「近代の呪い」、あの十世紀という歴史的格差の重み、南の島の避け得なかった哀しみが、黒々と血に汚れた姿で、ゆっくりと、われわれ加害者・日本人『ヤマトンチュー』の眼の中に浮上してくるだろう。

吉田 司 『ひめゆり忠臣蔵』より 大田出版

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ひめゆり問題は靖国問題に比べ幾層も奥が深い。

靖国問題はマスコミによっても取り扱いやすいのだろう。盛んに取り上げられる。問題が単純なのだ。A級戦犯の問題。兵士だけが祀られている問題。その兵士の中に旧植民地の者が遺族の意志に反して奉られている問題。国家による国民意識の誘導。政治と宗教の問題、などなど。構図が単純である。

しかし、ひめゆり問題となると、マスコミは平和運動の中でしか語れなくなる。
かつてヤマトンチューがウチナワンチューに対して何をしたか。それを受けてウチナワンチューがウチナワンチューに対して何をしたか。それを受けてウチナワンチューが台湾に対して何をしたか。
タブーのオンパレードである。

実は徳さん、この本を読むのは二度目だ。
小説などで、かつて読んだ事のある本を、そうとは記憶せずに手にし、途中で、はなはだしい時はその後半になって二度目の読書である事に気付く事が時々あるが、今回は意識的な二度読みだ。

停滞前線に徳さんがとっ捕まった時、以下のような吉田司の語調が励みになるからだ。

あはは、だめだコリャ。

フーム、これはですよ、私の名探偵ポアロ並みの「灰色の脳細胞」にピンと来たところでは(笑)、、、、。

おぉ、そうかい。そんなら、言いたかないけど、、、、、。

読者よ、突然で悪いけど、私はここで一杯飲(や)るぜ。やってられねぇーよ、全く。

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