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** そして、人類の歴史の中に宗教があるということは、「世の中」や日常的に暮らしている中で常識だと思われていることは全部違うかもしれないという発想、つまり「第三の視点」を提示する可能性を秘めている可能性を秘めているからではないか。もっと言うと、宗教と言うのは、現世的なものに死を対置することによって、根源的な批判として機能しているのではないかと思うのです。
宗教とは、日常生活がすべて正しいという話を最初から相対化する装置として人類が作り出したものかもしれません。
** 「自分探し」で悩んでいる人の多くは、自己イメージと「本当の自分」は一致すべきものだと思っているようです。しかし、私は、ズレているのが当たり前で、そのズレこそが、自分の存在領域ではないかと思います。
「本当の自分」というのは、「課せられた自分」に対する違和感が生み出す幻想でしかありません。矛盾に満ちていますが、本当の自己と名づけて意味があるのは、唯一、このズレ、自己に対する違和感だと思います。それこそ、頼りにも当てにもならないものです。
** もう一つ私が思うのは、今の社会は、子供が子供でいることを許さないのではないかということです。つまり、大人のヒナ型を作ろうとしているのです。何より問題なのは、子供を消費の対象として見ている、ということです。消費経済の中に子供の存在を組み込んでしまっている、言い換えれば、消費経済社会が人間の実存を丸ごと買い取ってしまっているのです。
これは個々の親の問題ではないでしょう。世の中の価値観が、子供であることを、「無意味」な存在であることを、許さないのです。
南 直哉 『なぜこんなに生きにくいのか』より 新潮文庫
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この文庫版のカバー装幀は南伸坊さん。
一撫で描きのムンクって感じですね。
友人から南直哉さんの本、面白いですよと薦められた。
(なおやじゃなく、ジキサイと読むそうな。それだけでお坊さんと言う感じがしてしまうのだから、音声と言うのは面白い)
何冊かある彼の著作の中から、この本を選んだということは、徳さん、60半ばを経てなお、生き辛さを感じているということなのか?
ということなのだ。
で、読者としての徳さんは、考えなければならない。
自分の生きにくさは、何に起因するのだろうか?
ジキサイさんの断定によると、幻想としての「本当の自分」像に呪縛されているから、となる。
第三者の目、鳥瞰的な視点を持ちなさい、ともおっしゃる。
ご説、ごもっとも。
でもね。
鳥瞰的に見れば、我々人間の行為なんて、ケシの実一つ一つのわずかな色合いの違いだけとして、全体の中に解消され無視される。
徳さんは、その解消、無視がいたたまれないのだ。
ジキサイさん、ゴメンね。
ジキサイさんの論のほんの一箇所を引き継いでいたら、ジキサイさんの想いと逆方向へ流れていってしまったよ。
ジキサイさんが言いたいことを、はすっかいで受け止めている事を認めます、、。
自分をほんのちょっぴり褒めてあげても良いと思われる所は、己の一切の負の価値を引き受ける覚悟だけは出来てるつもり、ということかな、、、。
そして最後に、徳さんは、自らの生き難さを、結構、偏愛している。
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