岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

【濃尾大震災】孤児救済 石井十次 その八

2005-02-13 17:16:03 | 石井十次
十次の言葉を読めば「正しいことを行え。結果を考えるな」と
いつも励まされる。
十次は楽天主義といわれる。たしかに常人では、「心配で夜も
寝られない」状況下を明るく疾走していく。
しかし明るいだけか。

ともかく、そのスピード感は21世紀の今でも驚くほどである。
(今、BGMは、QUEEN JEWELSだ)

その例を濃尾大震災救済に見てみよう。

1891年(明治24)
10月28日 大震災が起こる。
11月1日 救済着手(4日後である)
  21日 岡山に震災孤児15名到着(この年に岡山まで鉄道が
     開通。はたして乗ることができたのか) 
12月31日 救済孤児数93人に達する。
1892年(明治25)
1月1日 名古屋に救済孤児院を設立。
     (とても多人数を岡山まで送れないことと、ヤソが
     子どもを連れていく、という風評のためではないか)
1893年(明治26)
12月26日 名古屋孤児院閉鎖、全院児を岡山へ移す。
1894年(明治27)
4月16日 宮崎茶臼原へ移住開始。院児52名職員4名。

このように見てくると、最終的に孤児全員を岡山に移している。
「正しいことを行え。結果を考えるな」ということになる。
もちろん、岡山孤児院は、孤児で溢れかえっただろう。 

その結果、十次の故郷である宮崎に新たに施設をつくることに
なっていく。ただ、この考えは突然浮かんできたのではない。
十次の頭の中には、いつも宮崎があった。

そして、子どもは宮崎のような自然の中で、生活していくこと
こそ、大切だと考えていたのである。
岡山も、十分自然はあるが、孤児院の周囲には農家もあり、
孤児たちが、いたづらしてまわったことだろう。
十次や職員には頭痛の種だったかもしれない。     

故郷を愛していた十次には、自然の中で過ごせる場所である
宮崎は理想境だったのだろう。
ルソーの「エミール」が彼の愛読書だったことにも通じる。

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