岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

【人物】書き忘れてはいけない  石井十次その48

2005-04-11 18:04:15 | 石井十次
十次の社会事業のパートナーをひとり選べといわれると迷うこと
なく大原孫三郎と答える。
その孫三郎には、ビジネスを支えた柿原政一郎。
そして、大原コレクションを収集し孫三郎をメセナの元祖に
仕立てた児島虎次郎という二人の逸材がいた。
ともに十次にとっても重要な人間である。
では、柿原政一郎から書いていこう。

柿原政一郎(以下政一郎)は宮崎出身である。
十次の親戚筋にあたる。
十次を頼って来岡し、第六高等学校に入学する。もちろん
岡山孤児院を手伝っている。十次が1884年(明治17年)に
創った「馬場原教育会」は学生の修学援助を謳っているが、
1883年に生まれた政一郎が高等学校に入学する時代になっても、
十次の志は持続していた。

政一郎は、後に上京し東大に行く。当時のエリートコースである。
しかし、彼を病魔が襲い中退を余儀なくされる。
病から回復した政一郎が頼るのはやはり十次である。十次は彼を
手元におかず、大原孫三郎の倉敷紡績入社を勧める。政一郎24歳
の時である。
1907年、大原は、三歳下の政一郎を秘書として手元に置く。
その後の政一郎の活躍をみると大原の分身といってもよい。
もちろん、すこぶる高性能な分身である。

十次がなぜ、彼を倉敷紡績入社を勧めたか想像してみよう。
十次も手元の置いておきたいような人材である。
もちろん今の十次の事業にも必要ではあるが、未来の事業には
もっと必要になる。今は他社へ修業に出して、大きな組織を
学んできてほしいと思ったのではないか。

政一郎は、すぐに社命で大阪に行く。当時大阪は紡績の街と
いってもよかった。
紡績会社の労務を調査するにはもってこいだった。

十次は同時期に大阪「ミナミ」に保育所や夜学校を考えていた。
政一郎は、十次と一緒になって大阪の街を歩き、適地をさがした。
彼には、紡績会社の労務調査などするより、十次と人々のために
働くことがどんなに生きがいになるか、実感したことだろう。

しかし、大原とて、並の事業家ではなかった。
次のような逸話が残っている。

「僕は金持ちの息子に生まれたために、どれだけ難儀したか
しれない」と大原は切り出したという。
秘書役の政一郎が、お金持ちの家の番頭には向かないと辞意を
もらした時だった。
「僕はこの財産は神から世のため、社会のためにお預かりして
いると思っている。この気持ちを分かってもらえるなら、
僕の仕事を援助してもらいたい」
そう言って慰留する大原に、政一郎は尋ねた。
「それでは、社会のために大原家の財産をつぶそうというのが、
あなたの理想なのですか」。
すると孫三郎は「その通りです」と答えた。
『大原孫三郎伝』より※

このように言われてはついていかざるをえまい。
(今でも大原家は潰れてはいないけど)

政一郎は1962年まで生きている。十次が大正期に去り、孫三郎が
戦前に亡くなった後も、長く生きた。それだけに政一郎の活躍は
幅広く多岐にわたる。
もし十次にこの長さの歳月があればと思う。

その後、政一郎は大原社会問題研究所の創設に係わり、
中国民報の社長兼編集局長となった。
さらに地元宮崎から代議士に当選し、広島市・宇品新都市の
開発に携わった。
晩年は宮崎市長、高鍋町長を歴任。製茶業を営んで茶臼原
(岡山孤児院分院跡)の茶園の振興に尽くした。
宮崎では、政治家の逆コースを歩んだ名士と言われている。
国会議員→宮崎市長→高鍋町長というから確かに逆コースだ。

しかし、よくよく考えてみればありえる話だ。
正しい政治家のありかたとも思える。

※「大原孫三郎伝」の引用を山陽新聞HPからしたのだが、
後日「大原孫三郎伝」を直接読むと、前後の言葉があった。
政一郎は「私は元来社会主義者だから、お金持ちの番頭は
向かない」と言った。
孫三郎は「私も社会主義に興味がある」と話を受けている。
この部分を山陽新聞は引用していない。少し刺激的と思った
のかもしれない。しかしながら、これは重要なことである。
社会思想史として見れば無視できない。もちろん、以後の
歴史をみれば二人はシンパ以上の活動はしていないが。

次回は、児島虎次郎です。

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