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岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

【社会福祉の曙】石井十次 その一

2005-02-06 10:30:57 | 石井十次
石井十次(以下十次)の足跡を歩こうと思ったのは、
テキスト(2月4日掲載)からの引用文です。

「無制限収容、小舎制などさまざまな試みをし、
今日にもつながる課題を提起している」

この今日的課題とは何か?
今から、ほぼ100年前、社会福祉という言葉も
なかった頃に今に繋がる試みとは何か?

ひとつふたつは想像できる。
1.小舎制は、グループホームの源
2.孤児の就職活動。現在のジョブコーチ制度の先駆

私の現在の主要なテーマは、「人間の生活の場」と
「働くことの意味」です。
このことを、100年前に考えた人が、十次でした。

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岡山は、大阪から普通電車で3時間弱でいくことが
できる。
駅前から繁華街のある表町に歩く。まず丸善で
書籍を購入した。

「岡山孤児院物語」石井十次の足跡 山陽新聞社刊

この本を読みながら、実際に足跡をたどってみたい。
(読むだけでも一日かかったけれど)
人を知るには、その人が生きた時間と空間を
知らなくてはならない。

石井十次は、岡山生まれではない。
宮崎県高鍋町で1865年(慶応元年)に生を受け、
1914年(大正3年)に宮崎の地で48歳で没した。
まさに宮崎の人であり、明治時代の人であった。

ではなぜ、岡山が活動の中心になったのか。
十次は、志を立てるにあたり、まず医学を選んだ。
当時、西日本で医学を学ぶ街といえば、岡山だった。
交通手段も、陸路ではなく、海路が中心だった。
5泊6日の泊経由の船旅は、源氏や平家の時代と
大して違わなかったようだ。1882年(明治15)のこと
である。

医学修業の若者は、岡山に着くと紹介された牧師を訪ねる。
プロテスタントの教会である。
当時、新島襄の同志社英学校の学生が伝道に精力的に
歩いていた。京都から各地に広がった神学生は、
プロテスタント教会の礎となった。

岡山教会は金森通倫が初代牧師であり、彼を訪ねたのだが
不在で門前払いにあい、寄宿するためにカソリックの
天主教会に行ったという。
寄宿の条件が受洗なので、カソリックにいったん入信したが、
ものたりないので、再び金森牧師にプロテスタントに再受洗
してもらうことになる。
割りと簡単なのである。今ではちょっと信じられないが
当時はそのようなものであったのだろう。

また、学業のために、あてもなく教会や寺院に寄宿するという
ことも普通だったようだ。戦後においても、五木寛之の上京の
仕方はそのようなものだった。

ところで、キリスト教が解禁(黙認が正しい)になったのは、
1873年(明治6)で、同志社が設立されたのが75年
(明治8)、77年(明治10)には岡山教会の設立と
なっている。信じられない速さである。
(私は明治初年の日本の変貌は、第2次世界大戦後の復興の
速さに匹敵すると考えている)
これはキリスト教の伝道を受け入れる素地がすでにあったと
考えるのが自然ではないだろうか。
キリスト教の記述が長くなってしまったが明治期の社会福祉
事業はキリスト教抜きでは語れない。

そして、十次の精神的バックボーンにもキリスト教の教えが
あるということをおさえておく必要がある。

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