岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

佐藤雅彦さんが自ら書いた「若年認知症発症と診断の経緯」 (3)

2012-04-19 04:30:21 | 佐藤雅彦さんと認知症のページ 

以下の文章は2010年に佐藤さんが書かれた文章です。
メール第2信から一部転載です。
原文のままです。
なお、当ブログのカテゴリーに「佐藤雅彦さんと認知症のページ」を作成しました。

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私、佐藤雅彦は55歳。独身、大学の数学科を卒業後、中学の数学の教師を経てコンピュータのシステム販売会社にシステムエンンジニア、事務職、配送係として勤務していたが、やがて若年性認知症と診断を受け、現在、以前から住みマンションで一人で暮らしている。

「どうして私がこんなことに・・・・」

ある頃から、仕事をしていてからなんとなく不自由を感じるようになありました。例えば、課内会議の議事録が書けなくなった、当時購買課で発注業務をしていましたが、注文書の明細が短期記憶できなくなり、メーカーとのオンライン端末に向かって発注内容を入力する時も1字1字見ないと入力できない。自分に能力がないかなと思いました。
そのため、病院に行って1999年3月、頭部MRI画像を撮ってもらうことをしましたが、「異常なし」。
しかし、仕事の能率はどんどう低下しっていきました。

労働組合に相談した結果、「しばらく休んだほうがよい」という結論になり2000年4月休職することになりました。
休職期間中は「仕事に代わる人生の目的をもとめ」、以前から通っていた、教会の聖歌隊で歌を練習したい、世界の飢えや貧困に苦しむこともたちを援助している、民間援助団体ワールト・ビジョウ・ジャパンでボランティア活動をして過ごした。

脳に萎縮が見られるという診断

2002年8月「もう事務職は無理でしょう」と言われ、嘱託身分の配送係として復職、以後3年半、配送車に同乗して得意先に納品する仕事を続ける。
しかし、納品先のビルの入口や出口分からなくなり迷ったり、納品先に台車を忘れるようになりました。
正しく届けた確信がもてなくなったり、車を止めた場所がわからなくなって、30分も探し続けたり、ということもありました。
これはおかしいなと思い改めて、精神科を受診しました。

脳のCT画像を撮ったところ、今度は「脳に萎縮がみられます」と言うことで、認知症と診断されました。
2005年10月認知症と診断なされ自ら会社を退職(別メールから転載:岩清水)

告知で「突き放された」気持ち

認知症と診断されことはまったく予想していなかったので、たいへんショックでした。
仕事のこと、これから先のことも考えられなくなりました。
告知された時驚きで「頭が真っ白になり、医師に何を質問してよいか」分からなくなりました。

医師の告知は淡々としており、私は「突き放された」と言う印象をもった。
医師には病気であるのを受けとめるには、心の準備がいる。「認知症の疑いがあります」でとどめてほしかった。
病気を告知するとは本人にとってどんな意味があるのか、考えてもらわないと、容易に早期診断、早期絶望になってしまいます。
また、医師から予後(気についての経過と結末についての見通し)がでなかった。
医師には、予後は個人差が大きいことを伝えてほしかった。
告知後のフォローをしっかりしてほしかった。
医師からは「大変ですが、ころからは2人3脚で治療に取り組んでいきましょうね、困ったことがあれば何でも相談してください」と言ってもらいたかった。

判断力のあるうちにやっておいたほうがよいことその後の暮し方について、どこに相談に行ったらよいか、介護保険や障害年金制度などについても、示唆、説明がほしかった。
また、「病気と共に生きときの、心の持ち方、人間の価値はその人の有用性できまるものではない、どんな人も尊い存在で、生かされていることに、感謝して生きましょう」と言ってもらいたかった。

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佐藤さんが告知を受けた2005年はまだ認知症という病名がついたばかりです。
京都で世界アルツハイマー国際大会が開かれた2004年はまだ痴呆症という病名でした。
当時すでに認知症予防を取り組んでいるNPOもみられましたが、医師の多くは予防はできないと思っていました。
それから7年で認知症を取り巻く環境は大きく変わりました。



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