
岡山大空襲直後の被災地の写真です。
写真が小さいので、わかりにくいと思います。
この写真は米軍が専用のカメラで撮影したものです。
岡山大空襲展で展示されていました(撮影OK)。
とても高解像度で私の実家も見分けることができます。
現代の衛星写真と比べても遜色ないように思われます。
全体に白く映っているところが、焼野原になったところです。
右側の端に上から下に太い線で黒く映っているのが旭川です。
右下あたりで川が曲がっているところが後楽園と岡山城です。
岡山城はこの空襲で焼失してしまいます。
写真の中心部分の左側に、右上から左下に斜めに線が見えるのが、鉄道です。
太くなっている部分が岡山駅です。その上にもうひとつ太く見えるのが操車場です。
この鉄道の左側地区も焼夷弾を浴びています。
奉還町です。岩井さんはここに住んでおられました。
そこから、左の方向に逃げて、そして上の方に向かいます。
そこにも焼夷弾が降り注ぎました。
私の実家は左上に映っています(このサイズでは判別できませんが)。
岡山大空襲は1945年6月29日未明午前2時から4時30分にかけて
およそ2時間30分にわたって続きました。
いわゆる波状攻撃です。それが何派に渡ったのかはわかりません。
飛来したB29は140機程度と言われます。
ではどのように襲いかかったのか考えてみましょう。
(以下の推測は私自身が考えたことで資料の裏づけがない部分もあります)
まず、テニアン島を飛び立つところから考えてみましょう。
140機が一時には飛びたつことはできません。
2時間30分の空襲ということは、2時間30分かけて、飛び立ったことに
なります。150分で140機離陸したことになりますから、
1分に1機の離陸が可能ということになります。
相当に綿密で正確な離陸準備が必要になります。
日本軍はこのような大規模な空港設備を持つことはありませんでした。
離陸したB29は上空で編隊を組むまで待機します。
10機編隊なら10分は待たなければなりません。
限度は20分でしょうから、20機程度までの編隊になります。
そうなれば、7つの編隊が波状攻撃をかけたことになります。
この空爆時には、中高度(4000m)で飛来して命中率を高めています。
攻撃方法はグランドゼロ(攻撃目標点)を定めて集中して落とします。
そのようにすれば、数キロ圏内に着弾するということになります。
重点地区を徹底的に攻撃しました。
この重点地区とはどこか。
岡山はこれといった軍事拠点はありません。
ならば、街の中心部がグランドゼロに選ばれたのは、
恐怖感を植え付け、厭戦気分を煽ることが大きな目的だったことになります。
イラク戦争の爆撃目的と同じです。
この場合は、大量の人々を殺傷することは目的にならないはずです。
しかし、被災者の証言は異なります。
この数派の波状攻撃は目標が違ったという意見です。
それは、最初の攻撃で周辺部分を円状に攻撃し、火災を起こします。
そしてその後に中心部分に焼夷弾を落とします。
どのようなことが起こるか想像できます。
最初の攻撃から逃れて中心部分に向かった人は、逃げ場を失い
焼夷弾の嵐を受けざるをえなくなったわけです。
生き残った人々は幸いに円の外に逃げた人(中心に向かわなかった人)です。
中心部で逃げ場を無くした人々は百貨店の地下に避難しました。
防空壕がわりです。
ところが、そこがグランドゼロ(標的)だったのです。
生き残れるはずはありません。
この写真では、左右センター、天地では地から4分の1辺り、
言い換えれば、真ん中より少し下の位置となります。
その辺りがグランドゼロです。
米軍の無差別攻撃とはこのようなものでした。
写真が小さいので、わかりにくいと思います。
この写真は米軍が専用のカメラで撮影したものです。
岡山大空襲展で展示されていました(撮影OK)。
とても高解像度で私の実家も見分けることができます。
現代の衛星写真と比べても遜色ないように思われます。
全体に白く映っているところが、焼野原になったところです。
右側の端に上から下に太い線で黒く映っているのが旭川です。
右下あたりで川が曲がっているところが後楽園と岡山城です。
岡山城はこの空襲で焼失してしまいます。
写真の中心部分の左側に、右上から左下に斜めに線が見えるのが、鉄道です。
太くなっている部分が岡山駅です。その上にもうひとつ太く見えるのが操車場です。
この鉄道の左側地区も焼夷弾を浴びています。
奉還町です。岩井さんはここに住んでおられました。
そこから、左の方向に逃げて、そして上の方に向かいます。
そこにも焼夷弾が降り注ぎました。
私の実家は左上に映っています(このサイズでは判別できませんが)。
岡山大空襲は1945年6月29日未明午前2時から4時30分にかけて
およそ2時間30分にわたって続きました。
いわゆる波状攻撃です。それが何派に渡ったのかはわかりません。
飛来したB29は140機程度と言われます。
ではどのように襲いかかったのか考えてみましょう。
(以下の推測は私自身が考えたことで資料の裏づけがない部分もあります)
まず、テニアン島を飛び立つところから考えてみましょう。
140機が一時には飛びたつことはできません。
2時間30分の空襲ということは、2時間30分かけて、飛び立ったことに
なります。150分で140機離陸したことになりますから、
1分に1機の離陸が可能ということになります。
相当に綿密で正確な離陸準備が必要になります。
日本軍はこのような大規模な空港設備を持つことはありませんでした。
離陸したB29は上空で編隊を組むまで待機します。
10機編隊なら10分は待たなければなりません。
限度は20分でしょうから、20機程度までの編隊になります。
そうなれば、7つの編隊が波状攻撃をかけたことになります。
この空爆時には、中高度(4000m)で飛来して命中率を高めています。
攻撃方法はグランドゼロ(攻撃目標点)を定めて集中して落とします。
そのようにすれば、数キロ圏内に着弾するということになります。
重点地区を徹底的に攻撃しました。
この重点地区とはどこか。
岡山はこれといった軍事拠点はありません。
ならば、街の中心部がグランドゼロに選ばれたのは、
恐怖感を植え付け、厭戦気分を煽ることが大きな目的だったことになります。
イラク戦争の爆撃目的と同じです。
この場合は、大量の人々を殺傷することは目的にならないはずです。
しかし、被災者の証言は異なります。
この数派の波状攻撃は目標が違ったという意見です。
それは、最初の攻撃で周辺部分を円状に攻撃し、火災を起こします。
そしてその後に中心部分に焼夷弾を落とします。
どのようなことが起こるか想像できます。
最初の攻撃から逃れて中心部分に向かった人は、逃げ場を失い
焼夷弾の嵐を受けざるをえなくなったわけです。
生き残った人々は幸いに円の外に逃げた人(中心に向かわなかった人)です。
中心部で逃げ場を無くした人々は百貨店の地下に避難しました。
防空壕がわりです。
ところが、そこがグランドゼロ(標的)だったのです。
生き残れるはずはありません。
この写真では、左右センター、天地では地から4分の1辺り、
言い換えれば、真ん中より少し下の位置となります。
その辺りがグランドゼロです。
米軍の無差別攻撃とはこのようなものでした。