「政治には失望した」という気持ちは、多かれ少なかれ
ほとんどの国民は持っていると思う。
しかし、政治は空気のようなもので、無関心でいるわけには
いかない。
汚染された空気になれば吸って困難に遭遇するのは、その無関心な
国民である。
ということで、政治には、多少でも係わる必要があると思っている。
私の住んでいる地域では、草の根的に住民が国会議員を支援している。
今日は、地域の集会所にボランティアの人々が集まって、チラシの配布
準備をした。
その輪に、当の議員が顔を出して、国会報告や皆さんの話を聞いた。
このような関係は、議員が「ただの人」だったころから続いている。
当時、議員は高齢介護の研究者だった。
その研究の成果として出版した本を読んだ地域の主婦たちが、
「この人を国会に送ろう」と、地域を走り回った。
落選の憂き目もみたが、やがて熱意は成果へと繋がった。
その時の支援者と議員の関係は今も続き、議員を「先生」などと
呼んだことはない。
今でもお互い金はない。
集会所の場所代は、ボランティアのカンパであり、
弁当も持参である。
チラシを作ると金がなくなるので、配布はボランティアが走り回る。
みんな、これが当然だと思っている。
人は、社会に貢献できることで、心の満足を得ることができる。
それだけで、自分の時間を費やすことができる人の力が
議員のエネルギーとなる。
そのことが、わたしたちのささやかな誇りである。
ほとんどの国民は持っていると思う。
しかし、政治は空気のようなもので、無関心でいるわけには
いかない。
汚染された空気になれば吸って困難に遭遇するのは、その無関心な
国民である。
ということで、政治には、多少でも係わる必要があると思っている。
私の住んでいる地域では、草の根的に住民が国会議員を支援している。
今日は、地域の集会所にボランティアの人々が集まって、チラシの配布
準備をした。
その輪に、当の議員が顔を出して、国会報告や皆さんの話を聞いた。
このような関係は、議員が「ただの人」だったころから続いている。
当時、議員は高齢介護の研究者だった。
その研究の成果として出版した本を読んだ地域の主婦たちが、
「この人を国会に送ろう」と、地域を走り回った。
落選の憂き目もみたが、やがて熱意は成果へと繋がった。
その時の支援者と議員の関係は今も続き、議員を「先生」などと
呼んだことはない。
今でもお互い金はない。
集会所の場所代は、ボランティアのカンパであり、
弁当も持参である。
チラシを作ると金がなくなるので、配布はボランティアが走り回る。
みんな、これが当然だと思っている。
人は、社会に貢献できることで、心の満足を得ることができる。
それだけで、自分の時間を費やすことができる人の力が
議員のエネルギーとなる。
そのことが、わたしたちのささやかな誇りである。
選挙民と
国会議員の間の
先進的な従属関係
(議員は利権を約束しないし、
選挙民が政策提案の素材を持っている)
が成り立っていますね。
私は
もっか
「よそもの」としての生活ですが
政治についていえば
(江戸時代はおろか)中世の構図が
残っています。
・・よそ様に嘆くひまがあれば
ビラの一つも配れればよいか。
どうも
若いときからの「運動」や仕事で経験し、見聞した
さまざまな「権力者」への絶望が
尾を引いているのか、政治の世界からは避けたいという心理が残ります。
(例:野党議員の海外でのお買い物の手伝いといった実例。30年前の話ですが)