《本記事のポイント》
- 暴徒と化した警察と切実だった「法の支配」
- "無名の菩薩"の勇気
- 香港人を駆り立てるもの
「人と人との間にある公的領域が消滅した状態が全体主義である」
かつて政治哲学者のハンナ・アレントは、このような趣旨で、全体主義を表現したことがある。
2020年の香港国家安全維持法成立後、一切の自由な言論活動が不可能になった香港は、「公的領域」が喪失した状態にある。
今回は今月13日から公開され始めた映画「時代革命」をアレントの思想から読み解いてみたい。
「十年」で描いた未来が到来
映画「時代革命」は、2019年6月から始まった香港の民主化デモを俯瞰する形で描いた作品だ。
壮絶な市民の抵抗を詳細に描き、香港革命を人類の記憶に留めたドキュメンタリー作品でもある。
この映画が香港で上映されることはない。作品名を口にしただけで、解雇されたケースもある。
映画監督のキウイ・チョウ氏は、2016年にオムニバス映画「十年」の「焼身自殺者」の監督で、香港電影金像奨の最優秀映画賞を獲得した。
チョウ監督は、国家安全法が可決された後の未来を描写。筆者は16年に、「十年」の監督たちに香港で取材する機会に恵まれたが、未来を楽観視していている監督は誰一人いなかった。彼らの危惧は当たり、国家安全法は4年後の20年に成立し、前倒しされた格好となった。
他の監督たちがイギリスやカナダに亡命する中、クリスチャンであるチョウ監督は香港に留まっている。「神が見ている」という自覚があるからだという。
19年に香港人を中国本土で裁判にかけることを可能とする「逃亡犯条例」が採択される見込みが高まると人口700万人のうち100万人の市民が街頭に出た。抗議活動への参加者数は、日に日に増え200万人へと膨らんでいった。
その中で、若者の自殺も"流行"した。映画では、香港の未来を正すために自らの命を犠牲にしていく姿を見て、彼らの遺志を継がんとする香港人の心のさまを映し出している。
暴徒と化した警察と切実だった「法の支配」
中国本土の法で香港の市民を裁くことができるようになれば、香港の「法の支配」は崩壊し、一国二制度はなきに等しいものとなる。中国への香港返還は民主化が条件だったが、そのような条件は一蹴された。
筆者が2019年に香港に取材で訪問した時は、市民に対する警察の弾圧が苛烈さを増していた時期に当たる。
映画では、警察が若者の胸を狙って射殺したり、市民に集団で暴力を振るったりするなど、残虐さを増す警察の実態を余すところなく描き出す。
当時日本では「デモ隊が暴徒と化した」との報道が主流だったが、香港の警察が北京政府のイデオロギー実現の道具と化していたことはほとんど報じられていない。しかも彼らが北京語を話していたという情報も皆無であった。
市民は逮捕され、懲役を科される一方で、市民に暴行を加えた警察の罪は問われないという不公平な法の裁きが横行した。
そうした中、市民の中に「法の支配」という概念が、リアリティのあるものとして、抗議活動の中心に据えられていく。
筆者も10代の若者たちが「法の支配」と書いたプラカードを持ってデモに参加していた姿を数多く見かけたが、彼らにとって「法の支配」とは法律学で習う抽象的概念ではなかったのである。
"無名の菩薩"の勇気
アレントは、主著『人間の条件』においてトロイ戦争に赴いたアキレウスの物語を例にとり、有限な命しか持たない人間が不死の人生を手に入れるには、「命を賭けなければならない」ということを知っていたと述べている。
そんなアレントが理想とした、「勇気」の美徳を備えた「人間像」は過去の話ではないし、ましてやフィクションではなかったことを「香港革命」は証明した。
この映画では、生命を代償にしてでも、自由のために命を捧げる無名の若者たちが、無数に登場する。
文字通り「無数」なのだ。
前線で戦う者、後方支援に従事する者、偵察部隊、看護部隊など、それぞれの持ち場を守って、自然に秩序が出来上がってゆく姿も入念に描かれているが、その「連帯」の姿には目頭が熱くなる。
香港人を駆り立てるもの
雨傘革命以降、市民の政治参加の情熱は、水面下に潜らざるを得なかったものの、その灯は消失したわけではなかった。
象徴的なのは、ある若者のセリフだ。
「(香港の)若者たちが選ばれたというのではなく、僕たちが選んだのだ」
それは公的領域で生きることが「自由」であり、「幸福」であることを心から知った者の発言である。
アレントは主著『人間の条件』『革命について』において、公的領域に自由を創設することが革命であり、そうした栄光や誇りを含んだ幸福こそが、人間が求めるべき幸福であると定義した。
だが現代人にとって、これほど遠い概念はないだろう。
- 「公的領域」って何だ?
- 公的領域に自由を創設することに命を賭けるだって?
- 人間は経済的繁栄を謳歌できればよいのではなかったのか?
- 家族と幸せな休日を過ごすことが、人間にとっての幸福ではないのか?
そんな感覚を、この映画に登場する在留外国人の白人男性がおおよそ次のように代弁する。
「君たち香港人は馬鹿げている。私は33年間香港に住んでいる。経済も観光業も破滅させる気か?」
映画を見た方々は、彼の発言をどう感じるのだろうか。
「違和感」。そして次に、なぜ香港のデモで命を賭けている若者の気持ちが分からないのかという「共感力」の欠如への疑問がもたげてくるかもしれない。
さらにもう一段、掘り下げてみると、「私的生活」に埋没した現代人の特徴を露呈しているに過ぎないことも見えてくる。
近代以降、消費社会の発展とともに、人々は公的な問題に無関心となり、「私的世界」に埋没するようになった。「幸福」という言葉に、「私的な」という形容詞がついていることにさえ気づくことができない。
しかしアレントによれば、それはギリシア以来、人間が営々と築いてきた本来の幸福とは異なるものであった。
アレントが詳述するように、古代ギリシアでは、人間が人間として生きるだけでは、人間の条件を満たしているとは考えられなかった。
国家の重要な問題に、政治参加して意見を表明していくこと。この公的な領域の中に生きなければ、人間は自由人ですらなく、奴隷に成り下がるという自覚がギリシアのポリスには存在した。
公的空間とは、人間が栄光ある生き方を遺すために欠くことのできない、極めて斬新な空間だったのである。
大川隆法総裁は、公的な幸福について、こう説いている。
「活動的生活のなかにおける幸福感というものは、やはり、どうしてもあります。『自分の人生を使って、この世に一石を投じ、この時代に自分が生きた証となる、何らかのモニュメント、記念碑を遺したい』という気持ちです。『この時代に生きた証を、自分の活動を通して遺したい』という気持ちがあり、それが実現される過程において、人間は真なる幸福の一つを味わうことができると思うのです」(『政治の理想について』)
良き夫、良き妻がいて私的幸福が担保されれば、国家という共同体が成立するわけではない。
政治体制が善きものとなってはじめて、善き市民は存在しうるのであって、そのために生きる「善き市民」が存在しなければならないのである。
専制と異なり、全体主義は最終的に「私的幸福」をも破壊する。逆説的だが、私的幸福を守りたければ「公的幸福」に目覚めなければならない。
香港の、"無名の菩薩"の勇気ある姿に、我々が学ばなければならないことはあまりに多いのである。
【関連書籍】