古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎で活躍した人~「カッテンディーケ」~3

2012-12-10 05:45:43 | ホームページ更新


2年後の1859年


長崎海軍伝習所は閉鎖となり帰国。

1861年、オランダ海軍大臣となり、

一時は外務大臣も兼任した。

1866年オランダで50才で亡くなりました。

なお回想録『長崎海軍伝習所の日々』

(水田信利訳、平凡社東洋文庫)が訳されている。


カッテンディーケの教育を受けた

勝海舟の立案によって、

1864年に西洋式の

海軍士官養成機関・海軍工廠である

神戸海軍操練所が設立された。



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幕末の長崎で活躍した人~「カッテンディーケ」~2

2012-12-08 05:05:18 | ホームページ更新

1857年(安政4)9月21日、

幕末に徳川幕府が発注した軍艦ヤーパン号

(後の咸臨丸)を長崎に回航し、

幕府が開いた長崎海軍伝習所の

第1次教官ペルス・ライケンの後任として

第2次教官となる。

勝海舟などの幕臣に精力的に

航海術・砲術・測量術などの

近代海軍の教育を行う。



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幕末の長崎で活躍した人~「カッテンディーケ」~1

2012-12-06 08:05:34 | 長崎の歴史
『ヴィレム・ヨハン・コルネリス・ホイセン・
 ファン・カッテンディーケ』

(Willem Johan Cornelis ridder
  Huijssen van Kattendijke)

1816年~1866年

オランダの海軍軍人、政治家。

日本においては単に「カッテンディーケ

(またはカッテンダイケ、カッテンデイケ、

 カッテンデーケなど)」

と表記されるが

「ホイセン・ファン・カッテンディーケ」が

正式な姓である。


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幕末の長崎で活躍した人~「フルベッキ」~14

2012-12-04 05:35:08 | 長崎の歴史
補足~2

フルベッキは日本政府が

信教の自由を認めることを常に祈っていました。

また、もう一つ願いがありました。

日本が1858年に結んだ通商条約などの

不平等の是正を実現させたい

という二つの願いは一緒にかなえられます。

フルベッキはアメリカ、ヨーロッパに

不平等条約を改正するため

天皇の使節を派遣することを大隈重信に示唆します。

しかし、大隈重信は

二年たって、政府内に

不平等条約を何とかして改正したい

という議論がされるようになったとき、

大隈は岩倉具視にフルベッキの提案、

ブリーフ・ノートを示します。

欧米との交渉でこういうことを主張しなさい。

そうすればこういう反論がなされるでしょう。

それにはこう答えなさいと、

岩倉はその提案が余りにもぴったりなので、

驚いてフルベッキを招き説明を求めます。

まさに日本政府として願っていた事であったので、

それから二カ月更に詳しい計画を建て、

岩倉具視以下、内閣の大部分が行くという

三十数名の大使節団を編成し、

22カ月という思い切った長期の交渉と

視察の旅行をします。

その報告書は、

幕府から派遣された木村遣米使節団のものと比べ、

格段に優れています。

どうして初めて行く国で、

詳しい部分まで見ることが出来たのか不思議でしたが、

フルベッキの計画があったことが戦後明らかになり、

謎が解けました。

しかし、フルベッキの働きは

伝道局の部長にのみ報告されるだけで硬く秘密とされ

フルベッキの功績は表されませんでした。

(小生おもうに 、フルベッキの働きは、
日本の救世主ではなかろうか!!)とおもいます。                   




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こころのゆとりと、教養を高めよう

2012-12-02 09:05:42 | おもいで
昔の人達の格式ある遊びと、教養ある営み方、

皆さん少しは考える時間と、遊びをもちましょう。

お茶をすると、ウタヲ詠み、花をいけ、書を読み書きする、

又ほかに、いろいろ習い事があります。

古美術 崎陽にあそびに、おいでください。

一緒にまなびましょう。

長崎の心田菴の紅葉



佐賀-九年菴の紅葉行ってきました



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幕末の長崎で活躍した人~「フルベッキ」~13

2012-12-02 05:25:11 | 長崎の歴史
補足~1


オランダではVerbeekでフェアビークと呼ばれていた。

アメリカ移住のとき

アメリカ人が発音しやすいようにVerbeckと変えた。

青山墓地のフルベッキの墓碑銘が

Verbeekと刻されている、としている。

フルベッキが新婚のマリア夫人とともに

長崎に赴任したのは1859(安政6)年の11月。

翌年1月、マリア夫人は女児を出産したが、

日本が開国して、最初に生まれたクリスチャンの子供

であることを喜び、

エマ・ジャポニカ・フルベッキと名付けた。

しかし、数日にして天に召された。

フルベッキの長崎伝道は

このように悲しみのうちに始まったのである。

宣教師として来日したフルベッキだが、

伝道に専念できたのは晩年になってからだった。

巧みな日本語の講和で、

日本各地を伝道して廻るのが晩年のフルベッキの姿だった。


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