古美術 崎陽

古唐津 茶碗 他お茶道具等 古美術全般を取り扱う「古美術崎陽」のHP日記

幕末の長崎で活躍した人~「田中久重」(11)

2011-08-13 07:45:04 | 長崎の歴史


補足~4

天保8年(1837)大塩平八郎の乱が勃発。

一面焼け野原と化した逆境の中でも、

久重は、さらに新たな発明に取り組んでいた。

「いつまでも消えない灯り」と

商人を中心に大人気を博した"無尽灯"が発明された。

空気の圧力を利用し、

菜種油が管をつたって灯心に昇る

その仕掛けは、長時間安定した灯りを供給し、

商売や生活水準の向上に一役買ったのである。


      長崎の歴史

幕末の長崎で活躍した人~「田中久重」(10)

2011-08-10 06:35:16 | 長崎の歴史



補足~3

天保時代(1830年~)に入り、

各地で藩政改革が行われるようになると、

からくり興行も難しくなってきた。

そこで久重は実用品の製作・販売を始めるために、

天保8年(1834)に大阪に移り住むことにした。

そこで売り出し、注目を集めたのが、

真鍮製の「携帯用懐中燭台」。

「夜の帳簿つけに便利だ」という商人をはじめ、

夜間医療の現場でも活躍する中で、

「人々の役に立ち、かつ新しいモノを作り続ける」

という彼のポリシーを、名実ともに、世に知らしめた。


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幕末の長崎で活躍した人~「田中久重」(9)

2011-08-08 07:25:15 | 長崎の歴史


補足~2


二十代の久重は、からくり興行師として

大坂・京都・江戸などを行脚した。

水力や重力、空気圧など、

様々な力を利用した"からくり人形"が、

彼の十八番である。

童子盃台、文字書き人形など、

行く先々の人々をおおいに驚かせ、

楽しませたのである。


その見せ物の一つが「弓射り(曳)童子」。

4本の矢のうち、

1本だけ射的を失敗するよう

精巧なからくりにあえてミスの演出を加えた。

こうした久重のユーモアのセンスは

興行を成功させた理由の一つであった。


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幕末の長崎で活躍した人~「田中久重」(8)

2011-08-06 07:35:06 | 長崎の歴史


補足~1

「からくり」と「くるめかすり」

「発明工夫をもって天下に名を揚げたい」

 家職を捨て十代半ばにして

 からくり発明家としての才能を町中に広めた。


『久留米かすり』の創始者・井上伝の

 「定番のかすりを素材とする工芸だからこそ、

   今までにない模様で差をつけたい」

 との願いに応え、従来とは違う

 花や鳥の美しい模様を織り上げた。

 久留米の文化発展・継承にも一役買った。




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幕末の長崎で活躍した人~「田中久重」(7)

2011-08-04 06:25:13 | 長崎の歴史


わずか8歳にして開かずの硯箱を作った久重。

和時計の最高傑作、蒸気機関、

電話機までも開発します。

「からくり儀右衛門」は

人を喜ばせることに何よりも生甲斐を感じ、

人々の必要としているもの、

生活を豊かにするものを考え、

そのアイデアを次々と形にしていきました。

主な発明品

 文化4年(1807) 開かずの硯箱

 1820年代 弓曳童子

 1820年代 童子盃台

 天保5年(1834) 懐中燭台

 天保8年(1837) 無尽灯

 嘉永3年(1850) 須弥山儀

 嘉永4年(1851) 万年時計(万年自鳴鐘)

 嘉永5年(1852) 蒸気船(スクリュー式)の雛形

 安政2年(1855) 蒸気車・蒸気船(外輪式)の雛形

 文久3年(1863) アームストロング砲

 明治4年(1871) 無鍵の錠

 明治11年(1878) 電話機(試作)

 その他 製氷機、ネジ切りゲージ、

 自転車、精米機、写真機、昇水機、

 改良かまど、旋盤楕円削り機、煙草切機、

 醤油搾取機械、種油搾取機、報時機など



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幕末の長崎で活躍した人~「田中久重」(6)

2011-08-02 07:15:33 | 長崎の歴史


 『久重の言葉』
 
 高い志を持ち、創造のためには
 
自らに妥協を許さなかった久重は

 以下の言葉を残している。

 「知識は失敗より学ぶ。

  事を成就するには、志があり、

  忍耐があり、勇気があり、失敗があり、

  その後に、成就があるのである」


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