補足1
~吉雄耕牛~3
寛政2年(1790)樟脳の輸出に関わる誤訳事件に連座し、
蘭語通詞目付の役職を召し上げられ、
5年間の蟄居処分を申し渡されたが、
復帰後は同8年(1796)蛮学指南役を命じられた。
寛政12年(1800)に平戸町の自邸で病没。
享年77。法名は閑田耕牛。
訳書には『和蘭(紅毛)流膏薬方』、
『正骨要訣』、『布斂吉黴瘡篇』、『因液発備』
(耕牛の口述を没後に刊行。
のちに江馬蘭斎が『五液診方』として別に訳出)など。
通訳・医術の分野でともに優れた耕牛であった。
子供で永久が医術を、
通詞は権之助(六二郎)がそれぞれ受け継いだ。
権之助の門人に高野長英らがいる。
古美術 崎陽
長崎の歴史
~吉雄耕牛~3
寛政2年(1790)樟脳の輸出に関わる誤訳事件に連座し、
蘭語通詞目付の役職を召し上げられ、
5年間の蟄居処分を申し渡されたが、
復帰後は同8年(1796)蛮学指南役を命じられた。
寛政12年(1800)に平戸町の自邸で病没。
享年77。法名は閑田耕牛。
訳書には『和蘭(紅毛)流膏薬方』、
『正骨要訣』、『布斂吉黴瘡篇』、『因液発備』
(耕牛の口述を没後に刊行。
のちに江馬蘭斎が『五液診方』として別に訳出)など。
通訳・医術の分野でともに優れた耕牛であった。
子供で永久が医術を、
通詞は権之助(六二郎)がそれぞれ受け継いだ。
権之助の門人に高野長英らがいる。
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