天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

同工異曲の山の中から

2024-02-14 07:17:38 | 俳句



ネット句会「流星道場」の投句締切が近づいてきた。10句出しである。
句はあるのだが以前出した句をまた出しそうでびくびくしている。先月出した10句のうち2句を去年か一昨年の同じ時期に出したらしい。目ざといN君に指摘されて「しまった」と思った。彼はたぶんまだ50代後半だろう。
指摘されてありがたいのだが、正直言って、これをなくすことはできないと思っている。パソコンには記録してあるので調べればいいのだが面倒。自分の過去を探索するのが嫌でもある。これから書こうとする句にしか興味がない。それが前に考えたものでなけれないいのだがそうでないことが問題なのである。
34年俳句をやってきてネタはほぼ書き尽したのではなかろうか。だいたい4、5年で自分の持っているネタを書き尽してしまっただろう。後は以後見たもの経験したものを書くのだが、世の中にそうそう目新しいものがあるわけではない。
一人の人間の考えだすことは限りがある。いや一人の人間だけでなく人間の考えることにそう新しいことがない。ゆえに句会で同じ句をしばしば見るし似たような句をたくさん見る。それに「類想多々あり」と書く。N君にしても似たような句を書いているのではないか。
月光集の山地春眠子さんがかなり前「同じことを繰り返しているだけだよ」と自嘲されたことがある。格上の春眠子さんにしてもそうなのか、と安心して笑い合った。一つの頭は締め切った部屋で扇風機を回しているようなもの、同じ風が巡っているだけ、というようなことを話したものである。
この国に何千万と俳句を書く人がいて日夜俳句を生産している。それは空に出る雲のようなもの。空の雲に一つとして同じものはないし、一つと数えられないような仕様ものもあっておもしろい。富士山へ登ったあの日のあの湧き立つ雲を覚えている。それが二度と出ることはない。けれど似たような雲はほかの場所で、ほかの日にたびたび出る。
似ているけれど違う……違うけれど大きく見れば似たようなもの。これが俳句の世界であろう。
これを広辞苑は「同工異曲」という。
すなわち、音楽・詩文などで、手法は同じであるが、趣の異なること。また、見かけは異なっているようだが中身は同じであることにもいう。
と解説している。
中身は同じだが見かけが違う、趣が異なる。これでよしとして類想を怖れず二番煎じを気にせずやるしかないと思う。
鷹主宰が2、3年前「鷹の句の98%は類想です。けれど2%新しい句があればいいのです」とおっしゃったことを思い出す。
句会へ10句出しても勝負球は1句か2句。それを仲間が評価するかしないか。今そんな思いで句会をやっている。ほかの句が前見た句であってもご容赦願いたい。
コメント
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