藤田湘子が61歳のとき(1987年)上梓した第8句集『黑』。荒行「一日十句」を継続していた時期であり発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の2月下旬の作品を鑑賞する。
2月21日
回想をつねさそふ沖梅真白
湘子の生まれた小田原の海であろうか。海をはるかに眺めれば幼少のころを思い出すのか。まだ寒い時期に開く梅の花がいきいきしている。
2月22日
すこし憂く春の牛蒡を削ぎてより
春愁か。牛蒡の皮を削ぐのとはればれしない気持ちとは引き合う。が、「憂く」とここを連用形にしたことがわからない。「憂し」と言い切るのがこの感情に対して思いきりがよすぎるのは理解できるがさっぱりしない。
浅瀬には浅瀬の春の機嫌あり
こういうふうに書けるようになるまでどのくらいの修練が必要なのか。写生ではなく擬人法である。この句が成功としているとするなら「浅瀬」を二度使ったことであろう。巧さでなした1句である。
2月23日
坂東の血が酢海鼠を嫌ふなり
言いたいことは、俺は酢海鼠は嫌いだから食わない、ということ。それだけのことを「坂東の血が」を持ってきたことでえらくおもしろくしている。
鳥雲に数珠買ふこともメモの中
買い物をするために外出した。買うべきものを書いたメモを手に。「数珠」が効いている。「鳥雲に入る」を略した「鳥雲に」は俳人好みの季語で安易に使われがちだが、さすがに類型的でない場面で使っている。
抽斗の奥は手つかず鳥雲に
よくわからない。ひとつの抽斗が「奥は手つかず」というほど奥行があるのか。「抽斗の中は手つかず」ではやや浅いが……。こちらの「鳥雲に」は前の句より安易に置いている。
老班(しみ)ふゆるかなしみにをり百千鳥
老班と百千鳥との取り合せはいい。ここで「かなしみにをり」をいうのが湘子か。甘いのではないか。
2月24日
妻の息かゝり古雛よみがへる
人の息がかかって雛が目覚めるというのは納得できる。
障子開けて三日月見せし古雛
「三日月見せし」が新鮮。こういう切り口に初心者は気づかない。
2月25日
往き還りして末黒野に歳減る
野焼して黒々している。そこを行って帰って年が減った、というのである。若返った気分であるという。籔が消えてさっぱりした風情でそう思うのか。「歳減る」という言葉を思いつく人は少ないだろう。作者がしかといる句である。
水温む茨の棘を感じつつ
読みがむつかしい句。水辺に茨があるのはわかるが、「感じつつ」は実際に棘に触れたのかそれとも棘を見ただけなのか。
2月26日
鞦韆に優柔の人捨てたるや
ぶらんこという遊具は、腰かけて漕がないとき優柔不断の匂いがする。煮え切らない奴はここへ捨ててしまえ、というのである。季語の本意に叶っていておもしろい。
2月27日
黄沙いまかの楼蘭を発つらんか
大陸の奥の楼蘭から黄沙はやってくるのか。そこはシルクロードの町である。眼前に見えていないものを扱う想像力に感嘆する。壮大なスケールの句。
沖雲の崩れんむとして実朝忌
陰暦1月27日は陽暦3月7日ころ。早春である。「沖雲の崩れんむとして」は雄大でいかにも実朝を感じる。
2月28日
あきらめや海蘊(もづく)が喉を通るとき
海蘊が喉を通るときあきらめを感じるのか。やや大仰であるがわかる。
実朝忌怒濤と闇を同じうす
夜の海である。波は若干見えるかもしれないが海の音と暗闇ばかりである。「怒濤と闇を同じうす」が熟達した表現であり恰幅を感じる。実朝忌らしい恰幅である。
降りつのる雪に居給ふ雛かな
あたかも雪を浴びて雛がそこにあるような玄妙な味わい。「雪に居給ふ」は微妙な表現である。