鷹の同人、帆刈夕木から処女句集『干潟の時間』(ふらんす堂/本体価格2800円)が届いた。
ほかりゆき……なんと美しく響く俳号だろう。つい夕木と呼捨てにしたくなる。というのはぼくと彼女は鷹の同期生なのだ。
夕木は平成2年藤田湘子がつくった「鷹新人スクール」の第一期生という優等生。ぼくは桂信子の「草苑」を去って鷹へ飛び込んだ雑草であった。
1200名ほどいる鷹の中で顔と名前が一致するのが数十名、その中で同期であり同志と認識しているのは夕木のみである。彼女もぼくをそのように思っており、中央例会で顔が合うと会釈して無事を確かめ合う。
初期の代表作は、
ポケットの焼栗自由にして孤独
であろう。
この句を見たときの藤田湘子の喜びようを小川軽舟が伝える。
すなわち湘子はこの若さを大いに称えるとともに、「焼栗を私はヤキグリと読んでいたがこの作者の年齢であったら、マロンのほうがいいと思う」と述べたという。
これに対して現主宰の見方がふるっている。
しかし、これは私の推測だが、帆刈さんは「ヤキグリ」でいいと思っているのである。「マロン」だなんて、と静かにほほえむ帆刈さんが想像できる。帆刈さんは湘子が褒めた方向へどんどん進んで若手を謳歌することもできたはずである。けれども帆刈さんは、自分の心に好もしく寄り添ってくれる俳句だけを作り続けた。
作者自身もこの言葉を素直に受けとめている。
帆刈夕木は容貌、人となり、句風において端正、清楚、慎ましさの3点セットであるとずっと思っている。
焼栗と同じ20歳代の作品に、
寒林やくちづけの唇つくりたる
降る雪に眼遊ばせさはりあり
裘をんなのにほひ隠したる
降る雪に眼遊ばせさはりあり
裘をんなのにほひ隠したる
があるが、このあたりは湘子がいう若手謳歌の気風が見える。若い女性がやりそうな流行に乗ったきらいがあり昨今の夕木からみてかなり無理が見てとれる。
キスとか、月経だとか、女の匂いだとかいうような情欲・官能系から夕木はほど遠い。夫がいるのだろうと思うほどである。
初期の句でぼくが注目するのは、
たつぷりと地は影を吸ふ鰞鵪
なんで鳥の中でも小さなものを季語に持ってきたのか。ぼくなら影をもっと生かす桐一葉を考えるのだが…。まだ俳句をよくわかっていない時期と思われるが、「たつぷりと地は影を吸ふ」という措辞にこの作者の特徴がしかと出ている。
たつぷりと吸ふのが唇であれば奔放。そういうふうに書く女流をあまた見てきた。しかし影であるところが夕木らしい慎ましさなのである。
このときの影への思いが研ぎ澄まされて、句集最後のほうの、
芝に影落として秋の行きにけり
に結実したのだろう。
言葉の数を徹底的に減らして余分なことはいわない。影は雲かもいれないし鳥かもしれないし木の葉かもしれない。あるいは心象としての影かもしれない。
行秋を象徴化した絶品である。
影といえばこの句も慎ましい。
冬の蜂影のもぢもぢしてゐたり
叫ばない、誇らない、突出しない、という道を夕木は貫く頑固者である。
カナリヤの黄や橙や秋の風
傷癒えて肉やはらかし春の雨
後添になりしと聞きし夏の月
故郷に友は娶りぬ雪間草
運針は右から左さやけしや
行く夏の水族館に漂へり
いそしみて干潟の時間雲移る
むづかしき仏蘭西映画ひこばゆる
傷癒えて肉やはらかし春の雨
後添になりしと聞きし夏の月
故郷に友は娶りぬ雪間草
運針は右から左さやけしや
行く夏の水族館に漂へり
いそしみて干潟の時間雲移る
むづかしき仏蘭西映画ひこばゆる
フランス映画がむずかしいというのは面倒ということだと思う。つまりフランス映画は男女のどうにもならぬ情念をしつこく描いたりする。それが煩わしいのではないか。
夕木は清楚でさっぱりしている。
青葡萄鎖骨のくぼみはぢらへる
官能といってもこの程度。恥じらうほほえみも慎ましいのである。