天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

ああ新聞休刊日

2016-09-12 15:49:48 | 新聞


ああ今日は新聞の来ない月曜日である。
いつも通り4時半に目覚めたが新聞が来ないので手持ち無沙汰、いたしかたなく荻原浩の『ひまわり事件』をすこし読む。
俳句の糸口があれば1時間ほど句作に熱中することもあるが今朝は気が乗らない。

朝、新聞をひらくことが習い性となっている。
テレビ、ラジオをつける、またはパソコンをひらけば世の中のニュースは得られるが紙面を読むということで精神が安定する。
ありきたりの切り口で読むにあたいしない記事はたくさんあるが一つか二つ興味を誘うことが新聞には出ている。
興味を引きそうな記事を捜すこともおもしろい。

新聞を見ていてここに出ていないことで重大なことが世の中に起こっているんだろうな、というふうに最近よく考える。
新聞に載せる情報をどれにしようかという考えが新聞社にあって、獲得して捨てている情報も多々あるだろう。
その落したほうの情報を実は自分が捜しているのかもしれない。それはもう運のようなものであり、世界は報道されたことの裏で抹殺された情報が海面下の氷山のようにあるだろう。
簡単にいうと世界は報道されたことのみで成り立っている。
為政者は報道管制によって世界を治めるのに都合のいいように見せようとする。
世界にはさまざまなことが起こっているが、それをニュースにしないかぎり存在しなかったこと、起きなかったことになってしまう。
権力というような大げさなことでなくても、ニュースには価値判断が伴うであろう。
たとえば、トルコの遺跡でフランス人観光客の一人が突然死したちしてもそれを記事にする日本の新聞はほとんどないだろう。
死亡の理由がイスラム国の襲撃がらみなら小さく報道されるかもしれぬが。
それよりスマップの解散の方が日本人にとっては大きいニュースであろう。あるいは木村くんと中居くんの確執の内容のほうが。

新聞の記事はそのまま信用しているわけではない。2行読んで悪文の例に採用したいようなものもある。
ひどい文章だなあと切りぬくのも楽しく新聞がないと朝が手持ちぶさたである。
新聞と女房はやはりそばにあってほしいと思うのである。
コメント
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