
去年よりはやい桜満開である。桜関連の句で小生を魅了しているものを取り上げる。
さきみちてさくらあをざめゐたるかな 野沢節子
まっさきに思うのはこの句で、なんといっても「あをざめ」という<色の裏切り>が優れている。作者の事情を探ることは趣味ではないが、13歳で脊椎カリエス発症、以後75年の生涯を闘病した。それが桜は薄桃色であるという余人の常識から遠ざけたのであろう。ちなみに、<色の裏切り>俳句として<くれなゐの色を見てゐる寒さかな 細見綾子>を挙げることもできる。
山又山山桜又山桜 阿波野青畝
吉野など一帯がでこぼこした山と点在する桜の名所を描いた句であろう。すべて漢字でひらがなのない表記が効いていて、全部ひらがなの野沢句と対峙する。俳句は動詞が要らず名詞のみで成立することを立証したかのような物の配置がみごと。
まさをなる空よりしだれざくらかな 富安風生
枝垂れ桜というと富安風生のこの句である。句の調べも空から流れるようにできていて無駄がない。
ゆさゆさと大枝揺るる桜かな 村上鬼城
木の黒さと太さ、桜の質量を強調した点で絶品。桜というと野沢節子を代表にどちらかというとはかなげに描かれることが多い中で、この句はまさに骨太で生命力を謳歌している。
ちるさくら海あをければ海へちる 高屋窓秋
この句も病的なほど美しい。「海あをければ海へちる」は理屈っぽい表現にしてさにあらず。理屈からもっとも遠いところへ花を持っていった技量は日本語の粋。愛誦句の極北である。
空をゆくひとかたまりの花吹雪 高野素十
窓秋が美意識の権化なら素十は目視の達人。木から離れてゆく桜の一瞬を空から切り取る眼力の凄さ。
てのひらに落花とまらぬ月夜かな 渡辺水巴
花と手の白さをあますことなく見せたうまい句。
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山桜あさくせはしく女の鍬 中村草田男
山畑ではたらく女。「あさくせはしく」に女に草田男のフェミニストぶりが端的に出ていて作者を好きになる。
世の中は三日見ぬ間に桜かな 大島蓼太
けだし名言といった境地。
風に落つ楊貴妃桜房のまゝ 杉田久女
自分を楊貴妃桜に重ねた艶な句。落ちてゆく女のはかなさ、妖艶さ。
夕桜折らんと白きのど見する 横川白虹
「白きのど」は女であろう。懸想している女と見たい。草田男の女への思いとは違った男どもの一般的な情欲。
父といふ世に淡きもの桜満つ 堀口星眠
たしかに父という存在は桜と合わない。特にこの時期、父は片隅にいて目立たない感じがする。
花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月 原 石鼎
調べがよく畳みかける叙述に酔い異界へ連れて行かれそう。
チチポポと鼓打たうよ花月夜 松本たかし
「チチポポ」という擬音の巧さ。鼓生活が長くないとなかなか出て来ないだろう。
風吹いて落花の水の割れにけり 加倉井秋を
花も水も清らか。「割れにけり」が凄い。
遠山へ喪服を垂らす花の昼 桂 信子
葬式の前か後かどちらだろう。この懈怠は全身を貫き動けないほど。
土さらさら落花も混ぜて若き鍬 能村登四郎
農家に生まれた小生にはよくわかる素材。土に花が混じることへの愛着は永遠のもの。
花の宿父を愛せし人に逢ふ 横川房子
父は死んでしまって父の世話をした女と娘が会う。父の妻はすでに死んでいる。娘としては複雑な心境だが「逢ふ」だから敵視していない。俳句でこれだけの物語を込めるのは至難の業。
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葉桜の中の無数の空さわぐ 篠原 梵
俳句に近づいたころこの句に会ってはっとした。よく見える俳句の即物性に感激した。
見てきたような桜を自分自身は書けない。桜の秀句をもののしたいと毎年この時期は思いつつ秀句とはいえないものを書き散らし、先陣のものを仰ぎ見る。

写真:東郷寺(府中市清水が丘三丁目40番地の10)3月26日
今年も桜で一句と観察していたら、だんだん青みがかって見えてきてこれをどうにか表せないかと思っていた所でした。
花色には紫が混じるから、完全な赤もピンクも青もほぼ無いらしいです。「咲き満ちて」影ができるから紫が際立ち、それがブルーに見えるのだと思います。
(こんな有名な佳句があるならもう諦めよう;)
追伸 この前はまた変な計算ミスをしてすみません。
バースデーは道真忌その日ですね。なんかワタルさんらしいです。
ぼくも鷹へ桜の句、出すかもしれません。並ですが。