
先日行った石狩川と石狩湾の風景を思い出す。あのあたり、川と海の隔たりはせいぜい300メートル。石狩川の幅は約600メートルで川と海に挟まれた土地は痩せて荒れていた。あれから4日たつがいまも風景がまざざと浮かぶ。言葉を得ようとして見た濃密な時間が脳裏に風景を刻み込んだ気がする。
俳句の醍醐味は吟行に尽きると思っている。町から離れ人の手がまばらにしか入っていない、人が辺境と呼ぶところ。水、風、雲が頻繁に動き、生き物を間近に目にするところで俳句を考えるとき気分が昂る。川いっぱいの濁った水を見て無限のエネルギーを感じ、押し寄せる怒濤を見て参りましたと気分になる。自然の威力に平伏すのである。
川や海をにらんで言葉を探しているわが身を人に見られたくない。
その格闘は「自慰」であろう。自慰は性的快感を一人で得る行為であり十代、二十代これに耽った。吟行は性的快感を得るのとはすこし違うが精神が激しく高揚する点で、性的な自慰と通じるところがある。自慰への欲求は生き続け70歳の半ばになりその趣が変ったといえる。
いつか俳句を知らないU子さんを邪魔にならないと判断し、旅へ連れて行ったことがある。ロープウェイで到達できる晩秋の高山。荒々しい霧が下から登ってきた。小生は興奮して霧に濡れながら手帳に言葉を書きつけた。それを室内のあたたかいところから見ていたU子さんに「もっとゆっくり風景を楽しめばいいのに」と言われて驚いた。彼女は俳人はそんなふうにして言葉を得ることを知らず、小生は写生することのほかに風景を楽しむすべを知らなかった。
そうか普通の人は漫然と風景を眺め写真を取れば満足できるのかと驚いた。俳句をやる者は漫然と眺めることができない。小生はブログのために写真を撮るが腕のいいカメラマンが随行していれば写真は彼に任せ、言葉だけで風景に立ち向かいたい。
U子さんに「なんか刑事か鑑識の人みたい」とも言われた。そうかもしれない。必死で見ることに自分の全精力を賭ける。言葉得ようとして募っていく疲労に酔いつつ、もっともっと言葉を追って七転八倒する。この格闘の本質が自慰なのである。「俳句は自得の文芸」と誰かがいうから「自得」といってもいい。ひとりで高揚してひとりで悦に入るのである。
「引きこもり」が社会問題となって久しい。青少年が学校や職場に行くことができず家の中から出ない精神的な落ち込みをそうをいうらしい。しかし「引きこもり」は人の本質に巣くう心性ではないか。人は独りになりたいのである。その者が誰かに危害を加えていないのであればもっと大らかに見てやっていいのではないか。「引きこもり」というその内向性に対して社会はマイナスのレッテルが貼るのだが、吟行の本質は「引きこもり」である。
「胡桃割る己の殻に閉ぢ籠り」とかつて書いたその意識である。自分の穴を深く掘ってゆく。墓穴の場合ある決まった深さを掘れば終るが吟行の穴掘りは果てがない。知覚する力が潰えるまで深く深く掘ろうと足掻く。女に餓えて行う自慰は割とすんなり決着するが吟行という自慰は果てがない。感覚と精神力がくたくたになってやっと諦める。
いま吟行の余韻の中にいる。自分の身丈を越えて穴を掘り続ける行為は究極の自慰であるとつくづく思うのである。
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