
2016年10月20日発行/文藝春秋
角幡唯介『探検家、40歳の事情』に「原始人のニオイ」という章がある。すこぶるおもしろい。
結婚しても商売が探検家の著者は毎年、北極圏へ長い旅をしている。そこから帰るたびに妻に「臭い」と言われる。「北極から帰ってくるといつもくさいからそれが嫌なのよね」と電話で予防線をはられていたが、実際に空港で再開すると、やっぱり臭うのだという。とりわけ夜、一緒に寝るときは迷惑このうえないらしい、とのこと。
ここでこの夫婦はすぐさまセックスしないのかえらく興味がわいた。ぼくら兄弟3人の誕生月は2月。父はそのころ冬季出稼ぎ行って田植え時期に里へ帰った。そのさい種を仕込んだのが明白な息子たちの誕生月、まあそういうこともあって。
それはさておき、作者は妻から原始人のニオイと言われることに誇りを持っている。それが楽しく、うきうきするのである。
原始人のニオイがすることが私自身のかけがえのない個性のように思えて、妙な誇らしささえ覚えたのだ。なぜなら原始人のニオイは、自分が社会で異形の者であることの証にほからないからだ。原始人のニオイを発散しているオレは、この清潔で安心して安全であることばかり尊ばれて、空気ばかり読みあっている現代消費社会における栄光あるハミダシ者であれているのだ、と。そしてハミダシていることで私は自由な人間になれている。
原始人のニオイ、結構じゃないか。原始人こそすべてを知る者だった。野生の中で生き抜くために知恵をしぼり、創意工夫をこらし、大胆に、そして細心に行動し、命を連綿とつないだ彼等こそ、この世界の真実を知る者だった。むしろオレは原始人に生れたかった。オレが探検旅行で自然の奥深く旅するのは、結局のところ原始人の見た世界に近づきたいからなのだ。
原始人のニオイ、結構じゃないか。原始人こそすべてを知る者だった。野生の中で生き抜くために知恵をしぼり、創意工夫をこらし、大胆に、そして細心に行動し、命を連綿とつないだ彼等こそ、この世界の真実を知る者だった。むしろオレは原始人に生れたかった。オレが探検旅行で自然の奥深く旅するのは、結局のところ原始人の見た世界に近づきたいからなのだ。
角幡さんほどの凄まじい旅をしなくてもたんに外国へ行くだけで日本はなんと無臭の国かと思う。いまやこの国はウォシュレットのトイレが当然のようにあり、そこへ敷く紙まであるという清潔至上主義がまかり通っている。
臭いと言われるのを万人がおそれすぐ風呂に入りシャワーを浴び、香水をふりかける。おまえの匂いはどこにある、といったふうに、人が匂いを発するのを怖れている。加齢臭などその極北にあり唾棄される。けれど人は年を取ればそういう匂いが出るもの、受け入れてやればいいのである。
よその国の人たちは人に匂いがあるのが当然とたぶん思っている。ロシアの飛行機に乗るだけでむっとする体臭を感じる。彼らはそう体臭を気にしていないのではないか。ほかの国の人々も。
日本人は異常だと思う。角幡さんの女房だけでなくうちの女房も。食べ物は生物であるから動物でも植物でもぜったい匂う。匂うものを食うのが生きることである。
胡桃にしてもほかの果実にしても採取する場に匂いはあふれている。草いきれ、葉っぱや昆虫の腐った匂い、食べ物を生み出す野は匂いの源である。海だって匂いそのものである。
それを拒んで清浄な世界のみにいたがるのは生から遠ざかる姿勢ではないか。
角幡さんと「匂い同好会」を結成したい気分になった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます